昨日(8/21)付拙エントリーには、多くのアクセスとブックマークコメントを頂きました。ありがとうございました。スマホ写真もキャプション文字起こしも、自分が「よく見る」ためにと思ったのが主動機のつもりでしたが、やっぱり「見ろ」と言われたんだなきっと。
だがあとで気になることがあった。拙記事にはパネル連番の最初と最後の方から載せたのだが、そうすると広島が舞台のものに偏ってしまった。
「焼き場の少年」こそ長崎だったが。
これは会場内に展示パネルと同じサイズのものが掲げられていた別バージョンだが、連番はなかった。原爆症認定集団訴訟支援全国連絡会のポスターのようだった。
キャプションも、前回拙記事に載せた連番10の展示パネルと、出典および大意こそ同じだが違う文章だった。
改行位置、変更しています。ルビある場合は省略しています。以下同じ。
1945年9月一佐世保から長崎に入った私は
小高い丘から下を眺めていました。
10歳ぐらいの歩いて来る少年が目に止まりました。
おんぶ紐をたすき掛けにし
背中に幼子をしょっています。
この焼き場にやってきた強い意志が感じられました。
しかも、少年は裸足でした。焼き場のふちに
5分から10分ほど立っていたでしょうか。
おもむろに白いマスクをした男たちが少年に近づき、
ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。この時、
私は背中の幼子が死んでいるのに気がつきました。
幼い肉体が火に溶け、ジューッと音がしました。
まばゆい炎が舞い上がり、直立不動の少年の
あどけない頬を夕陽のように照らしました。
炎を食い入るように見つめる少年の唇には
血がにじんでいました。
あまりにもきつく唇を噛みしめているので、
唇の血は流れず下唇を赤く染めていました。
炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。
背筋が凍るような光暈でした。
photo+text ジョー・オダネル
(元米従軍フォトグラファー)
NO MORE HIBAKUSHA!
原爆症認定訴訟を応援してください
そんなで「補遺」ということで、主に長崎舞台のパネルと文字起こしを何枚か貼る。展示してあった全部ではない。だから、他にも第5福竜丸事件、沖縄の米軍基地に起因する事故、イラク戦争の劣化ウラン弾による被爆者などをテーマとしたパネルもあったが、今回はそこまでは紹介しきれなかった。
7「ナガサキーあの日」
原爆記録映画は貴重だ。しかし、人間がいない。
原爆の惨は、全面火傷、腐敗した傷の人びと、それらの群れである。
それらの群れが地に充ち、川を埋めた。
頭髪をばらばらにふりみだし、火傷して裸で、黒く、あるいは白く膨れたのが、路上にも、岸辺にも、岡の斜面にもむらがりながら、のろのろと動いていた。
(秋月辰一郎)
秋月医師に関してはウィキペにも項目があったので、リンクを貼る。
9「プラットホームの母と子」
長崎原爆の翌日、
1915年8月10日。
浦上駅(爆心地から1km)の
ブラットホームで
死んでいた母と子。
体の黒い部分はやけど。
母親がかけている白布は、誰が…
ふとんを敷いているのは
どうして…
11「見てください」
見てください
この子どもたちに
何の罪があるのでしょうか……
すべての核保有国の指導者は
この写真を見るべきであります。
核兵器のもたらす現実を
直視すべきであります。
そして
あの日
この子らの前で起きたことを
知ってほしいのです。
この子らの無言の叫びを
感じてほしいのです。
(1995年11月7日、国際司法裁判所に
おける伊藤一長 長崎市長(当時)の証言)
伊藤元長崎市長のウィキペへのリンク。
以降の何枚かは広島か長崎か不詳。
12「母と子」
ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
(峠 三吉「原爆詩集」から)
『原爆詩集』は青空文庫に入っている。
13「来る日もくる日も」
来る日もくる日も新たな死者の数がふえつづけていた。
火葬が毎日どこかの空地で行われた。
家族の手で葬られるもの、最後の一人を見送る仲間、あるいは引き取り手のいない遺体。
まだ暑さの残っている秋の夕暮れ、晴れ着を着せられ、焼かれようとしている姉妹の顔は、お化粧されて美しかった。
14「黒い雨」
従兄は
銀行の地下室にいたために
やけど、かすり傷一つ負わず
そのまま黒い雨の中を歩き続け
夕方、わが家に帰り着きました。
本人も家族も
「運がよかった」と喜んでいたのに
一カ月後、高い熱が出て
髮の毛が抜け
体じゅうに斑点が出て
結婚まもない若妻と赤ん坊を残し
亡くなってしまいました。
15「死の同心円」
原爆による熱線は、人びとを焼き殺し、火傷を負わせました。燃え広がった火は、街を総なめにしました。
爆風で、地面や壁にたたきつけられて多くの人が無残な死をとげました。爆風は60kmにまで達し、家屋の損壊は5kmまでおよびました。
爆心地から1.5km以内の木造家屋は一瞬で倒壊し、家の中にいた人びとは押しつぶされ、火災で生きたまま焼き殺されました。
原爆の放射線は、近距離で被爆した人びとだけでなく、家族さがしや救援のために広島、長崎市内に入った人びと、避難者を看護した人にも急性原爆症を起こしました。
広島の死者のデータ
爆心からの距離 死亡率 0.5km以内 96.5% 0.5~1.0km 83.0% 1.0~1.5km 51.6% 1.5~2.0km 21.9% 2.0~3.0km 7.6% 原爆投下時の広島市の人口 31~32万人
1945年12月31日までの死者 約14万人±1万人
長崎の死者のデータ原爆投下時の長崎市の人口 27~28万人
爆心からの距離 死亡率 1.0km以内 88.4% 1.0~1.5km 51.5% 1.5~2.0km 28.4% 2.0~3.0km 8.5%
1945年12月31日までの死者 約7万人±1万人
展示会場には、被爆体験者が素材を提供し現代の高校生が描いた絵も飾られていた。
そのうちの何点かを、順不同で。
それぞれ絵の下に貼られていたのは、描いた高校生の感想と素材を提供した体験者の評だったが、スマホカメラの解像度が不足し文字起こしできなかった。
妙なことを思いついたので、書くか書くまいかちょっと迷ったが、書いてしまおう。
原爆テーマのマンガやアニメは、広島を舞台としたものは中沢啓治『はだしのゲン』やこうの史代『この世界の片隅に』がすぐに思い浮かぶが、長崎にはそういうものがあったっけ?
もちろんマンガやアニメに限定しなければ、ぱっと思い出せるだけでも永井隆『この子を残して』から山田洋次『母と暮せば』まで、いくらでも指が折れるのだが。
(「『この世界』は呉空襲」と突っ込まれるだろうか?「では『夕凪の街 桜の国』」と返すのは、さらに野暮だろうか?