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船頭平河川公園〔せんどうひらかせんこうえん〕へ行って船頭平閘門〔せんどうひらこうもん〕を見てきた(後編:公園)

船頭平河川公園のメインは閘門だと思うが、現実にそこに行きつくまでには結構うろうろした。時系列通りにスマホ写真を貼ると散漫になると思ったので「前編」では閘門にたどり着くまでを急いだ。今回は補遺的に。

www.watto.nagoya

 

あとで気づいたのだが、船頭平川公園への入口は上流側と下流側の2か所あった。上流側というのは、閘門上の橋を渡った先と表現するとわかりやすいだろうか。そっちの方が、圧倒的に広い駐車場があったのだった。そういうことは、だいたい後から気づく。

 

ここを見に行こうと思ったきっかけとなったハス田。見頃に近かったのは、この1枚だけだった。

 

それ以外にも広大なスペースがあったが、こんな具合だった。明らかに人の手は入っているが(でなければ雑草だらけになる)、カキツバタか何かの花は植えられていたけど見頃を逃したということだろうか。

次に身内を伴って行くとしたら森川花はす田の方だな、という明快な結論が出た。

ただし時季と花の様子によっては再検討の必要あろう。もしここがカキツバタで埋まっていたら、壮観だろうから。

 

湧水を利用した池と水路があった。ただし泥臭い匂いがして、あまりきれいな水ではないようだった。


公園から、閘門と長良川をつなぐ水路へ下りようとしているところ。

停泊しているのは漁船かな?

 

左側に水門扉。釣り人もいる。

 

黄色い水位計が目を引いた。

 

石段を上って引き返すと、こんな標識が目に入った。

右側面に「木曽川水系 長良川 国土交通省 長良 船頭平水位観測所」と、
左側面に「河口まで13.6km 明治45年設置 中部地方整備局 木曽川下流事務所」と書いてある。

 

時系列的にはここまでが、前編で長良川側(西側)水門扉上の橋を渡ってから木曽川側(東側)閘門水門扉手前のスペースに移動するまで、ざっくり飛ばした部分に該当する。

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前編で述べたことの繰り返しになるが、木曽川側の水門扉の上は渡れない。ここは長良川側の橋を渡って、木曽川側の水門扉前スペースに移動したところ。すなわち前編に貼ったのは上流側(北側)スペースであり、ここは下流側(南側)スペースである。

 

またしても情報量の多い説明書きが立っていた。

弊ブログ勝手に恒例OCRによる文字起こし。改行位置、変更しています。ルビある場合は省略しています。以下同じ。

左側の「船頭平閘門建設I」から。

「船頭平閘門」は明治32(1899)年10月に直営工事で着工し、明治35(1902)年3月に竣工しました。
・材料:煉瓦約180万個、セメント1,390トン、作業員延べ44万人余(『閘門工』より)
・閘門工事費:当初13万6千円余が、主に浸透水の排水費用増加で、15万5千円余となりました、
  現在の金額で約4億円余(総合物価指数で平成5年価格に換算)です。

 門扉
わが国初の鋼製閘門扉(イギリスから輸入した造船用厚板)。
幅3.30m、高さは大門扉7.46m、小門扉6.77m。
重量は1枚約10トンありました。
門扉据付け人数(職工・木工・人夫)は、延べ1,740人でした。

 近代閘門の誕生
1488年、北イタリアのバトヴアに閘室を持つ閘門が出現しました。
15世紀末、レオナルド・ダ・ビンチが給排水の小窓を持つ両開きのマイターゲートに改良しました。
ミラノの旧ナビリオ運河にレオナルドの閘門が保存されています。

右側の「船頭平閘門建設II」

 船頭平閘門の改築
門扉下部の小窓は、レオナルド・ダ・ビンチが15世紀末に給排水用に付けた小窓と同じ働きをします。
船頭平閘門は、閘室と門扉の外との水位差で給排水する「給水溝」が日本で最初に取付けられた閘門です、したがって、給排水用の小窓は、給水溝の故障に備えると共に、扉室の水位調整に使用されていますが、過去、故障時の使用はありません。

 閘門に携わった技術者
・青木良三郎(1868~1912)は大学卒業後、明治27(1894)年に内務省に入り、大正元(1912)年までの18年間、木曽川下流改修工事で特に船頭平閘門の設計・監督に尽くし、在職のまま病没しました。
・野村年(1875~1923)は大学卒業後、明治34(1901)年に内務省に入り、青木のもとで閘門工事 に従事し、大正12(1923)年イタリアでの交通事故で客死しました。

ダ・ビンチって、ほんっっとうに巨人だよね。

 

下流側から見た閘門長良川方面(西方)。橋の手すりに「徐行運転にご協力をお願いします」と書いてある。

 

水門扉を西(長良川側)から東(木曽川側)に向かって何枚か撮った。

 

木曽川方面の水路。「開門を通行する舟はベルを鳴らしてください」という看板は、長良川側の水門扉にも掲げられていた。

 

「閘門の操作方法」の説明書き。同じものを前編にも貼ったが、こっちは日に焼けて退色気味だった。

ここの公園では、他にも同じ看板が複数立てられているのを見た。

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下流側の公園に下りた。駐車スペースに引き返すためである。

真っ先に目についたのは「伊勢湾台風のあらまし」という説明書きだった。

 伊勢湾台風のあらまし
昭和34年9月26日18時過ぎ潮岬に上陸した超大型台風15号(伊勢湾台風)は、鈴鹿峠付近、岐阜市の西北を通過し殆どその衰えを見せぬまま北上、一旦日本海へ抜けその後再び青森県へ上陸して三陸沖へ抜け去りました。この結果、全国で死者・行方不明者は5,000名余に達し災害史上まれにみる大惨事となりました。
特に伊勢湾一帯は、暴風雨に異常な高潮が重なったため被害が集中し、愛知・岐阜・三重三県では全国の被害の9割にもおよぶ4,600余名の死者・行方不明者をかぞえ、家屋の全壊・流失は46,800戸、河川・海岸堤防の決壊は240ヶ所に及び、海水は河口から1.5km以上も離れた津島市にも達しました。この浸水は多くの地域で2ヶ月以上も続き、住民は想像を絶する苦しみを受けたのであります。
木曽三川周辺の人々は、今まで風水害により多くの生命・財産を失なうという悲しい体験をしてきました。これらの災害を防ぐため治水事業が行われていますが、またいつ災害にみまわれるかも知れません。
災害に対して常に充分な心がけと注意が必要です。
  国土交通省木曽川下流河川事務所

東海人にとっての伊勢湾台風は、関西の人にとっての阪神大震災、東北の人にとっての東日本大震災に近いものであろうか。伊勢湾台風は伊勢湾台風、阪神大震災は阪神大震災、東日本大震災は東日本大震災だという反論は予想されるが、世代を超えても忘れてはならないものという共通点があるのではないか。

 

ヨハネス・デ・レーケの銅像。台座には「治水の恩人 ヨハネス.デ.レーケ」と書いてあった。

 

少し角度をずらしたら、お地蔵さんが目に入った。

 

ハイコンテクストというのだろうか、宝暦治水、伊勢湾台風、さまざまな思いが一瞬にして湧き上がった。

合掌礼拝しました。生かされていることへの感謝、健康であることへの感謝、生きるのに必要なあらゆるものを与えられていることへの感謝を込めて。

もちろんデ・レーケ像前でも脱帽一礼しました。

 

銅像の背面に回った。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20230629/20230629171021.jpg

 21世紀へのメッセージ
このタイムカプセルは
 2,087年に
  ひらかれます
 1,987年10月埋設

もう21世紀やん。

 

銘文。

これはOCRにかからなかったから手起こしした。

木曽三川近代治水百周年に当り、治水の権威、オランダ人、故ヨハネス・デ・レーケ像を建立し、氏の不朽の功績を顕彰することは、洵に意義深く同慶の至りである。氏は、明治六年、日本政府の招聘により来日し当時の大蔵省土木寮御雇工師として、また明治十念より内務省土木局工師として、全国主要河川の改修計画の指導に当った。明治十一年木曽三川の流域を踏査し、「治水は治山にあり」という治水理念に基づく木曽三川改修意見書を提出し、明治三十年、当時の土木工学上最高の工法をもって改修工事が着工の運びとなった。かくて、薩摩藩による宝暦治水工事以来の歴史的難工事の三川分流は、明治三十三年に一応の完成を見るに至った。木曽三川の治水に半生を賭けたデ・レーケは滞日実に三十年、不滅の足跡を残して、明治三十六年、故国オランダに帰国した。氏の帰国に際し、明治政府は勲二等瑞宝章を贈り、氏の功績に報いた。因みに氏の在任中の待遇は、赴任当初の報酬月額参百円、退任時は五百円以上と伝えられている。当時、知事の報酬月額弐百円という明治の初葉にあって、氏に対する殊遇は洵に異例のことであった。この度郷党相寄り、デ・レーケの顕彰に当り、母なる木曽三川の恩恵と、先人の不屈の死闘に感謝の誠を捧げ、「木曽三川流域は一つ」の連帯をもって、限りない発展を期する
次第である。「未来につなごうふるさとの川」
  木曽三川治水百周年記念事行実行委員会 名誉会長 田中精一

月給の話はやや余計かなと思わないでもなかったが、宝暦治水の平田靱負ら薩摩義士が全く報いられなかったことを思い起こすと、明治政府の厚遇は救いに感じられる。

 

銅像前には広い芝生のスペースがあった。これは反対側に遭ったあずまやと(多分)太陽光発電パネル&風車による常夜灯。

 

さすが国営公園というべきか、全体にとてもよく手入れされている公園だと感じた。

やや見頃を過ぎつつあったが紫のアジサイが鮮やかだったので、締めに貼ろう。

来年のアジサイかカキツバタの見頃には、それらを見るためにここを訪れるのもアリかな?

あとで公園案内図を見返すと「旧閘門ゲート(明治期の水門扉)」とか見てなかった役物もまだあることだし。

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