しいたげられたしいたけ

「戦争で領土問題の解決を」という意見に反対する。戦争は遥かに多くのものを失わせる

遅まきながら名古屋城本丸御殿を見てきた(前編:本丸御殿内部)

再建された名古屋城本丸御殿を一度くらい見ておきたいという、例によって身内の要望である。

ウィークデーだしサクラの盛りも過ぎたし、そんなに混んではいないだろうと思った。幸い予想通りだった。

私の方にはあんまり思い入れがないので、スマホ写真と文字起こしを淡々と貼っていく。

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案内図。

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名古屋城は明治維新後、宮内庁管轄下にあったとのことで「恩賜」の文字が刻まれている。知らんかった。

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正門。

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案内書き。上の写真の右に見切れているあたりにある。

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弊ブログ勝手に恒例、OCRによる文字起こし。

特別史跡 名古屋城
 名古屋城は,御三家筆頭尾張徳川家の居城であり,初代の城主は,江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直です。慶長14年(1609),家康みずから築城を決定し,翌15年に石垣普請が着工され,17年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大小2O名で,城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っています。
 慶長20年(1615)に本丸御殿,元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し,二之丸御庭,御深井御庭なども整備され,名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。
 明治維新後,名古屋城は陸軍省の所管となり,名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが,明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。 昭和5年(1930)12月,名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され,翌年から一般公開が始まりました。昭和7年(1932)には,名古屋城全域が特別史跡に指定されました。
 昭和20年(1945)5月,第二次世界大戦末期の空襲により,天守や本丸御殿など国宝建造物24棟が焼失しましたが,焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門,空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047面が,戦後重要文化財に指定されました。
 昭和34年(1959),天守閣と正門が,ほぼ昔どおりの外観で再建されました。
 平成21年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり,平成25年(2013)に玄関・表書院部分が完成しました。現在も,平成30年(2018)の全体完成をめざし工事が進められています。

 

もう一枚、正門の案内書きも並んでいた。

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名古屋城正門(旧榎多門)
 ここにはかつて、榎多門と呼ばれる櫓門がありました。南側に「冠木門」と呼ばれる外門、北側と西側の石垣上には多聞櫓(長屋状の櫓)が建てられていました。内門の榎多門とあわせて、防御力の高い城郭の出入口である、枡形虎口が形成されていました。榎多門は明治24年(1891)の濃尾地震で大破し、代わりに明治44年、旧江戸城から蓮池門(元禄17年・1704年ごろ建築)が移築され、石垣も組み直されました。国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。現在の正門は昭和34年に、旧蓮池門を鉄筋コンクリート造で、外観復元したものです。

ルビ省略しています。 

 

正門を、中が覗ける角度でもう一枚。

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右下の看板を接写。

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正門をくぐると、本丸前の広いスペースに出た。手前が西南隅櫓、奥が東南隅櫓。

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公式HPのマップ を見ると「西之丸」らしい。

マップ | 観る | 名古屋城公式ウェブサイト

 

西南隅櫓の向こうに天守閣。耐震基準を満たしていないとのことで、現在は入場不可である。

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西南隅櫓の案内板。

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重要文化財 西南隅櫓〔せいなんすみやぐら〕
慶長十七年(一六一二)ごろに建てられ、末申〔ひつじさる〕櫓と呼ばれた。外観二重、内部三階建ての珍しい形態である。二階の西、南面に張り出しがあり、この下に石落しがある。床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。
櫓は明治後期から大正期ごろに、自然災害で倒壊したが、大正十二年(一九二三)、宮内省により、古材を用い再建された。
鬼瓦に菊紋が見られるのは、そのためである。

 

空堀にシカがいた。

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本丸の入口まで、写真奥に向かって進む。

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案内板と道標。

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案内板を接写。

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重要文化財 本丸表二之門
古名は南二之門、本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していた。本瓦葺の高麗門で、軒周りは漆喰塗り込めとし、柱や扉に金具を打ち付けている。現存する数少ない名古屋城創建時の建造物である。

 ルビ省略しました。以下同じ。

 

その本丸表二之門。

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門をくぐったところ。

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案内書き。

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本丸大手(表門)の東側の石垣をまたぐように,表一之門(櫓門)が建てられていました。慶長17年(1612)頃の建築と見られます。北側と西側の石垣上には,多聞櫓(長屋状の櫓)が隙間なく建てられていました。南側の表二之門から侵入した敵を,櫓門と多聞櫓の三方向から矢で攻撃する構造でした。このような四角形の広場をもった城の出入口を,枡形虎口といいます。
 多聞櫓は明治24年(1891)の濃尾地震で大破し,取り壊されたと見られます。表一之門は昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。

 

案内板。二枚上の写真の真ん中左寄り奥に、二人の人物に挟まれるように写っている。

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本丸表一之門跡
古名は南一之門、本丸大手の主門で、外門である表二之門とともに枡形を形成していた。
入母屋造・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落を設けていた。昭和二十年(一九四五)、空襲により焼失した。

 

石垣をクランク状に回ると、目の前に本丸御殿の玄関が現れた。

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上の写真の左側。この左奥に南西隅櫓がある。

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本丸御殿入口。建物右側にある。

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本丸御殿内部に入るためには、建物右側の通路を天守閣前まで進んでUターンする必要があった。

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上の写真のテントの中で、注意事項の短いビデオを見た。

  • 障壁画や飾金具に触らないこと
  • 撮影はいいがフラッシュ撮影禁止
  • 飲食禁止
  • 携帯電話の通話禁止
  • ボールペンなどインク筆記用具の使用禁止

のような内容だった。

毎度繰り返しているように、私のスマホは元々写りがあまりよくないが、光量が少ないとピントが合わなくなるので、内部の写真はさらに写りが悪くなります。

「こんなものだった」ということがわかる程度ということで、ご容赦ください。

 

もらったパンフレットに載っていた内部平面図によると、玄関左手の大廊下というところに飾られていた障壁画。デジタル複製だそうだ。

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玄関奥。虎と豹が描かれている。

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玄関右側。

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玄関の左側にある表書院という部屋。部屋ごとに障壁画のモチーフが違う。花札の萩に似てるけど、何だろうこれ?

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ともあれ、ここは花鳥図である。

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対面所。パンフレットによると「身内だけが入れる、豪奢かつ私的な舎殿」だそうだ。

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やはりパンフレットによると、この障壁画のモチーフは「風俗画」というんだそうだ。「風俗」って言葉は、現代日本語ではニュアンスが変わっちゃってるよね。

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上洛殿。

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欄間や飾金具が、ちょっとすごい。

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上洛殿あたりの廊下の天井。天井はどの部屋も凝っていたが、どれも暗くて写りがよくなかったので貼れない。

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「梅之間」というところ。畳の上に「この部屋の襖絵、壁貼付絵(復元模写)の一部は、現在制作中です。」という断り書きが置いてあった。

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このくらいのほうがいいなぁ。

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「名古屋城本丸御殿復元へのあゆみパネル展」と題して、パネル9枚にわたる説明書きがあったが、写りが悪かったのでアップはやめておく。

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パネルのタイトルだけ記すと

  • 史実に基づく復元
  • 発掘調査開始
  • 本丸御殿の基本設計
  • 本丸御殿復元の着工
  • 表書院の棟上げ
  • 本丸御殿 新生
  • 市民による森づくり
  • 木曽桧関連行事

といった具合で、それぞれ写真一、二枚と数行の説明が載っていた。

 

本丸前スペースから見た本丸御殿外観。

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上の写真の右側。手前に本丸御殿の「上台所」という張り出し、奥に小天守と天守閣。

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上台所はミュージアムショップになっていた。

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あんまり流行っているようには見えなかった。

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真向かいに、昔からあったであろう土産物店。昔というのは本丸御殿再建以前という意味だ。 

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なんつか、こっちの方が気合を入れて商売している気配があった。

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本丸石垣のヤエザクラが満開だった。

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接写。

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この項続きます。

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