しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを求めない

遅まきながら名古屋城本丸御殿を見てきた(後編:本丸御殿外観・西南隅櫓・金シャチ横丁)

身内につきあって名古屋城本丸御殿を見に行った後編である。私にはたいした思い入れがないので、スマホ写真と文字起こしを淡々と貼っていく。

 

天守閣前から本丸御殿の玄関方向に引き返している。

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弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。ただし日本語部分のみ。ルビは省略しています。

玄関
玄関は、正規の来客がまず通され、藩主との対面までの時間を過ごす建物です。一之間・二之間の2つの部屋があります。

 

玄関前を進行方向右手に折れ西南隅櫓に向かう道すがら、本丸御殿の外観を眺めた。

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表書院という部分。

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案内書き。

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表書院
表書院は、江戸時代には広間と呼ばれ、藩主と来客や家臣との公的な謁見に用いられた建物です。5つの部屋があり、四方に入側(廊下)がめぐっています。

 

建物の間から天守閣が見えた。

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振り返りがてら表書院を眺めた。

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天守閣の右手前にある建物は「上洛殿」というそうだ。

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上洛殿
上洛殿は、三代将軍家光の上洛にあわせて増築された御成御殿で、本丸御殿で最も格式の高い建物です。全部で6つの部屋があり、外側には縁があります。

 

上洛殿を通り過ぎたあたりの建物と反対側に、こんな案内板があった。

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御殿椿(根株)
ここには「御殿椿」と呼ばれる椿があり、三月から四月にかけて美しい八重大輪の白花を咲かせ、長きにわたり本丸御殿に彩を添えてきた。
昭和二十年(一九五四)五月の空襲で本丸御殿ともども火をかぶったが、焼けた幹の下から新芽が伸び、生き続けた。
しかし徐々に衰弱し、現在は根株だけが残っている。
本丸の北側、不明門の南側に植えられている椿は、この御殿椿を接ぎ木したものと伝えられている。

 

この案内板の反対側から、本丸御殿、小天守、天守閣を眺めたところ。

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突き当りに西南隅櫓がある。

案内板の文面は、西之丸の空堀の外側に掲げられていたものと同一だった。

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一応再掲。

重要文化財 西南隅櫓
慶長十七年(一六一二)ごろに建てられ、末申櫓と呼ばれた。外観二重、内部三階建ての珍しい形態である。二階の西、南面に張り出しがあり、この下に石落しがある。床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。
櫓は明治後期から大正期ごろに、自然災害で倒壊したが、大正十二年(一九二三)、宮内省により、古材を用い再建された。
鬼瓦に菊紋が見られるのは、そのためである。

 

石段の下から西南隅櫓を見上げたところ。

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石段を上ったところから、名古屋駅前の高層ビル群を眺めてみた。

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櫓内部の写真はありません。木造の木肌がむき出しになった武骨な造りで、二階の壁際には石落としの穴が開いていた。窓からは天守閣や名古屋駅前高層ビル群や官庁街ビル群が眺められた。

 

この際だから意見表明をしておこう。現名古屋市長らが主張するエレベータなし木造天守閣再建計画に反対します。

オリジナルに近い形で再建しようとすると、階段は相当に急なものになり、昇降できない人の割合は想像以上に大きくなるはずだ。この三層櫓の階段も、私は上れたが同行者は「やめとく」とのことで1階で待ってもらった。

そもそもバリアフリーの考えからすると、割合が大きかろうが小さかろうが、一部の人を排除する設計がいけないのだ。誰も好き好んで障害や能力低下を抱える奴はいない。私は今のところたまたま階段昇降に不自由ないだけで、例えば視力の衰えにはいたく悩まされている。好き好んで目を悪くしたわけではない。

 

本丸を出ようとしているところ。本丸表二之門を裏側から眺めるかたちになった。

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二之丸庭園に行ってみた。

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東南隅櫓。こちらには今は入れない。

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空堀に石垣の石がずらりと並べられていた。

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説明書き。

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ただいま、本丸搦手馬出(ほんまるからめてうまだし)の周辺において、石垣修復工事を実施しています。年を経て下部に膨らみが生じ危険度が増した2,000㎡をこえる石垣を、解体し再び積み直すという、時間と手間のかかる大規模工事です。
 2003年の施工開始から現在にかけて、石垣の解体工事が続いています。解体した石材は、内堀などに仮置きし、保護のためにシート等で覆っています。

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庭園入口あたりにあった加藤清正像。

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清正の石曳
天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。 

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もう少し進むと、こんな石碑があった。

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藩訓秘伝の碑
 この日文は、初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中にある一項の題目で、勤皇の精神について述べている。
 歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては、親藩であったのに勤皇帰一を表明したといわれている。
 この碑の位置は二之丸御殿跡である。

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さらに東門近くまで進む。

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「尾張勤皇青松葉事件之遺跡」碑
慶応四年(一八六八)一月前藩主で、藩の実権を握っていた徳川慶勝が、佐幕(江戸幕府存続)派の藩士十四人を処刑した。慶勝は勤皇(倒幕)派で家中の佐幕派を一掃した
とされる。これが青松葉事件である。
事件は箝口令が敷かれ、不可解な都分も多い。処刑された人々が、本当の意味で佐幕派でやあったかも疑わしいと考えられている。

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東門を出たところに、ドルフィンズアリーナ愛知県体育館。

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二之丸大手二之門という門を出る。

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二之丸大手二之門
 この門は二之丸西側にある桝形の外門となるもので、内門である大手一之門(現存せず)と共に古くは西鉄門といわれ、二之丸正門を形成していた。俗に桝形御門ともいい、一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門の形式をとる。
 なお、二之丸東側には東鉄門と称されていた二之丸東二之門があったが、現在は本丸東二之門跡に移築されている。
 共に国の重要文化財に指定されている。

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振り返りざまに撮っている。

 

前方に金シャチ横丁義直ゾーンが見えてきた。東海地方のローカルニュースでよく取り上げられるところである。

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特設のビアガーデンと思われるテント。

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振り向くとステージがあった。

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仮設の飲食物提供店。

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案内書き。一定時間飲み放題、食べ放題らしい。残念ながら私も同行者もアルコールは受け付けないし、それに私は車だ。

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仮設のビアホールを抜けると、常設店舗群があった。

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和服の人はおそらくレンタルだろう。

 

金シャチ横丁は、愛知県体育館を挟んで西側に義直ゾーン、東側に宗春ゾーンと2つある。宗春ゾーンは派手好きの風流君主として知られた尾張藩7代藩主宗春にちなんで名づけられている。8代将軍吉宗と対立して失脚したが、地元では今も人気が高い。

義直ゾーンには名古屋メシなど和風、宗春ゾーンはあんかけスパ、イタリアンなど洋風を集めているそうだ。

ケチつけて悪いけど、あんまり成功しそうな雰囲気がしないなぁ。義直ゾーンと宗春ゾーンが、愛知県体育館を挟んで離れすぎているのだ。だから宗春ゾーンまで足を延ばそうという気にはなれなかった。和風を食べるか洋風を食べるかは、その時その瞬間の気分でいくらでも変わるもので、ただでさえテナントが多いと言えない区画を2つに分ける理由が見当たらない。こういう観光地の飲食店街は賑わい・非日常感が第一のはずで、行政の都合を押しつけたのだとしたら、いただけない。飲食店街だけに。

 

義直ゾーンの西の端に、新しい植木があった。

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家康梅
“家康梅”は、梅をこよなく愛していた徳川家康が、家康の11男で後に水戸初代藩主となる徳川頼房の出生を祝いヽ自ら植樹したものと言われています。
この梅は、この梅の寄贈者が、家康を祀る久能山東照宮(静岡市)から“家康梅”の枝を譲り受け、接ぎ木して育てたものです。
家康ゆかりの梅として、家康9男で尾張初代藩主である徳川
義直にちなんで名づけられた金シャチ横丁「義直ゾーン」に植えられました。
       名古屋城総合事務所

 

さらに駐車場に向かって西に進むと、人力車が客待ちをしていた。

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官主導の飲食店街、和服レンタル、人力車か。ああ、きっとモデルは目下オーバーツーリズムに悩む関西某政令指定都市に違いない。

説明書きや案内板をいっぱい立てているのも京都を見習ったのだとしたら、その1点においては私個人的には好感度高いのだが。京都と言っとる。

 

車夫さんは車を曳かずにお茶を挽いていた。

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