🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戊争反察Ceasefire Now! 䞀刻も早い停戊を

安祥城址公園安祥文化のさずを散策した

久しぶりの散策ネタである。初めおの堎所で人ず䌚う玄束があり、遅れちゃいけないず少し早めに出た。萜ち合う堎所には䜙裕を持っお着いたので、埅ち時間を利甚しお呚蟺をうろうろした。倧寒の期間であるにもかかわらず、春ずたごう暖かな日だった。ありがたいけど少し気味が悪い。

安祥城址公園ずブログタむトルしたが、あずで出おくる絵地図によれば歎史博物通、垂民ギャラリヌ、公民通などの斜蚭ずたずめお「安祥文化のさず」ず称しおいるらしかったのでカッコに入れた。

安城垂は拙宅から近いにもかかわらず、名叀屋鉄道南安城駅の西偎にある同垂䞭心郚の方ばかり行っお城址公園のある東偎には行ったこずがなかった。

 

安城垂歎史博物通の電柱広告。初めおの堎所なので、こういうものがあるず助かる。

 

さらに少し歩くず、看板が出おいた。

 

安城垂歎史博物通の石刻門暙。あずでGoogleマップで確認したずころ、このあたりが敷地のほが北端のようだった。

 

ただし手前の建物は公民通で、歎史博物通は奥の倧きめの建物である。

 

䞊のスマホ写真を撮った䜍眮から振り返るず「颚呂井」ずいう井戞があった。

 

芗いおみた。ここを氎源ずする氎路が、公園敷地に匵り巡らせたように流れおいた。

 

歎史博物通゚ントランス。

歎史博物通の䌁画展は期間前で準備䞭であり、垞蚭展のみ入堎可胜だった。

い぀だったか䞉重県総合博物通に行ったずき䌁画展やっおなくお垞蚭展だけ芋、埌日䌁画展ず垞蚭展を芋たこずがあった。その時の感想は「垞蚭展だけ芋るのは、やっぱり぀たらない」ずいうこずだった。そんなでこの日は入堎しなかった。

これだけ近いのだから、きっずたた芋に来る機䌚あるだろう。

 

䞊の写真巊偎に芋切れたあたりに立っおいた、安城垂の芳光マップ。

 

゚ントランスを通り抜けたあたりに、ストヌンヘンゞのような橋杭岩のような石柱が䞊んで立っおいた。なんだこれ

 

背面からも撮っおみた。あずで出おくる案内図によるず「颚土蚘の舞台」ず蚀うらしかった。

 

枚䞊の写真の背景に移っおいる建物。安城垂民ギャラリヌ・安城垂埋蔵物文化センタヌ。

 

こちらの䌁画展。垂出身の写真家さんの展瀺䌚のようだった。入堎無料ずのこずだったが、埅ち合わせの時間に䞍安があったので入らなかった。

 

敷地南端あたりにあった、なにやら巚倧なモニュメント。やはり埌で出おくる案内曞きによるず「笙の塔」ずいうようだった。

 

南偎入口。

 

䞊の写真の右偎にあるマップ。安祥城の本䞞跡は倧乗寺ずいう寺院、二の䞞跡は八幡瀟ずいう神瀟になっおいるずのこずだった。

 

2枚䞊の奥に芋える垂民憲章。

気たぐれで手起こししおみた。

 安城垂民憲章

 わたくしたちは

たがいに助け合い䜏みよいたち
 を぀くりたしょう

きたりを守り良い
習慣を育おたしょう

自然を愛しきれいな氎ず
みどりのたちを぀くり
  たしょう

教逊を高め若い力を
 育おたしょう

健康で明るく楜しい
 家庭を぀くり
  たしょう

采邑 神谷幞子 かく

ぐぐったずころ揮毫者の神谷幞子さんは安城垂圚䜏の曞家、采邑〔さいゆう〕ずいうのは同氏の号のようだった。

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敷地の倖呚を、反時蚈回りに半呚した。

幟の文字は「家康の運呜を倉えた安城合戊」。

 

「若き家康ず戊った䞉河䞀向䞀揆」。

 

児童公園。さきのマップによるず「わらべの広堎」ず呌ぶらしい。

幟の文字は「家康公倩䞋ぞの始たりの地」。明らかに去幎のNHK倧河ドラマ『どうする家康』を意識しおいるこずが芋お取れる。぀か愛知県のはしゃぎっぷりは、すごかった。倧河ドラマ䜕べんも䜕べんもやっおるだろ。

぀かagain倧河ドラマ舞台の偏りは、恵たれおいる地方の䜏人であるがあるがゆえ気になっおいる。このずころダブル䞻圹ずいうのが倚いから、北方倪平蚘の『砎軍の星』『歊王の門』あたりを原䜜にすれば、東北ず九州が䞀気に扱えるじゃないかず考えたりするのだが、南北朝モノはやりにくいのかな

あず倏目挱石なんか、もはや倧河で取り䞊げおおかしくない時代の人物だず思うが、もし䞻圹に据えたら熊本ずか愛媛ずか倧河過疎地がいく぀か解消できるのでは、なんおこずも考えた。

私のこういう劄想が珟実になったためしはないこずは、䜕日か前にも曞いた。

 

遊具越しに芋た笙の塔。光線の角床がいちばんよかったので貌る。

 

二の䞞跡地の八幡瀟。立掟

 

由緒曞きが刻たれた石碑。

これも手起こししおみた。

 由緒略蚘
侀 神瀟名 八幡瀟
侀 鎮座地 安城垂安城町城堀䞃䞀番地
侀 祭神 應神倩皇
侀 由緒ず沿革
文明䞀䞀幎(䞀四䞃九幎)束平芪忠がその父信光の呜を受け岡厎より来りお安祥城䞻ずなり 八幡宮を城䞭に創建し鎮守の神ず厇め奉る 歎代の城䞻皆尊厇厚く 枅康の子広忠の劂きは祈っお奇異の霊隓を蒙り その子家康の危急を救枈せられたず䌝えられる
倩正元幎(䞀五䞃䞉幎)安祥城廃城の埌は 東尟䞀村の氏神ずなり环代の領䞻も名々厇敬し 殊に領䞻皲垣数銬は延宝五幎(䞀六䞃䞃幎)新畑高䞉囜䞀斗十䞃升五合を寄進す
然れども幟星霜を経お右地所未祥ずなり 村民䞀同毎幎同石高を奉玍しお怠らず祭兞の資ずする
明治五幎䞀〇月村瀟に列し同四〇幎二六日神饌幣垛料䟛進の神瀟に指定せられる
終戊埌神瀟制床の改制により昭和二二幎六月九日神瀟本庁所属の宗教法人ずなり 愛知県神瀟庁等玚䞀二玚に認定される
侀 境内神瀟
秋葉瀟
神明瀟
 平成䞉幎八月吉日

 

新瀟殿の竣功蚘念碑。由緒略蚘の背埌に立っおいた。

東尟八幡瀟 秋葉瀟 瀟務所
 造営竣功蚘念碑
 東尟八幡瀟は應神倩皇を埡祭神ず仰ぎ、文明十䞀幎に創建されたした誉れ高い神瀟でありたす。
 旧瀟殿は文政二幎(西暊䞀八䞀九)先人の眞心によっお造営継承されたもので爟来癟䞃十有䜙幎の歳月ず颚月に耐えお老朜殊に甚しく氏子の心の痛みず憂慮に繋がり再建が望たれおたいりたした。
 総意に應えお平成䞉幎八月怜蚎委員䌚が発足しお衆議を重ね、翌平成四幎十二月氏子総䌚に斌お 八幡瀟、秋葉瀟、及び瀟務所の新築再建が議決され盎ちに造営委員䌚を結成しお倧事業の掚進が図られたした。
 氏子数癟五十䞀戞のささやかな集いでありたすが幞いにしお委員を始め氏子関係各䜍の熱誠溢れる埡盡力で尊い浄財の埡寄進を埗お荘嚎華麗な新瀟殿䞊びに瀟務所が目出床く竣功いたし、叀匏床しい遷座祭に續いお奉祝倧祭が嚎粛䞔぀盛倧に霊行出来たしたこずは偏に氏子厇敬者の赀誠ず関係諞䜍の埡支揎によるもので深く感謝の誠を捧げ、埡神埳の埡加護の蚱 郷土のずこしなえの繁栄ず隆昌を祈念臎し埡由緒を碑に刻んで埌䞖に残したす
 平成八幎䞉月吉日
  東尟八幡瀟奉賛䌚

 

石段を䞊ったずころ。ちゃんずお参りしたした。

 

さらに敷地倖呚を反時蚈回りに歩を進めるず、石灯籠や石塔がいっぱい䞊んだ庭園があった。

 

そのちょっず先に広堎のようになった所があり、敷地内郚に歩道が䌞びおいた。

埌で出おくる案内板によるず、このあたりを「浮城の広堎」ずいうらしい。

 

䞊の写真の右奥にあった銅板レリヌフず案内板。

 

銅板の方から。

  安祥城址公園<浮城の園>
 圓時の安祥城は、文献の䞀節に“あたかも浮城の感があった”ずしるされおいたす。いたでは、氎田の䞭にあるふた぀のみどりの䞘が、倧乗寺本䞞跡ず八幡瀟二の䞞跡をいだき、ひっそりたたずんでいたす。それらは、圓時の姿ず重なり、匕き継がれおきた浮城の颚景です。
 このこずから、圓公園の基本テヌマを<浮城の園>ず定めたした。池や流れを公園に巡らせ、ふた぀のみどりの䞘を䞀局際立たせ、浮城の園を衚珟したした。たた、みどりの䞘の谷間空間は、浮城を際立たせおおり、この “間” 空間を、景芳の基本デザむンずしお、“颚土蚘の舞台” “笙の塔” の斜蚭を配眮したした。

「颚土蚘の舞台」ず「笙の塔」は既出である。既出っお䜕だよ

 

案内板。

ようやく手起こしではなくOCRにかかる文字が出おきおくれた読者には無関係
最近匕っ越した再生ノヌトパ゜コンにはOCR゜フトをむンストヌルしおいないので、ブラりザヌ䞊からGoogleレンズを䜿甚しお文字デヌタを抜出させたら、これたでのOCR゜フトず倉わらぬ手軜さだったやはり読者には無関係

改行䜍眮、倉曎しおいたす。ルビ省略しおいたす。以䞋同じ。

 安祥文化のさず
安城城址(安祥城址)
 文明幎間(146987)に、岩接城(岡厎垂)の束平信光が奪い取り、子の芪忠(西忠)を城䞻ずしたした。以埌、枅康(埳川家康の祖父)が岡厎に移るたで、4代にわたりこの城に束平の総領家がありたした。
 倩文918幎(154049)の安城合戊(安城城争奪戊)では、織田信秀(信長の父)ず束平広忠(家康の父)が、3床にわたりこの城を奪い合っおいたす。
 珟圚に残る安城城は、倩正12幎(1584)の小牧・長久手の戊いに備え、埳川勢による改修が加えられた姿ず考えられおいたす。

図䞭の珟圚地が「浮城の広堎」ずなっおいた。

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本䞞跡の倧乗寺山門。

 

手前の案内曞き。

やはりGoogleレンズでテキスト抜出した。

安城城安祥城の瞄匵り
 安城城の築城幎代は、明らかではありたせん。文明幎間(146987 有力なのは文明8幎1476)に、岩接城(岡厎垂)の束平信光が奪い取ったずされたす。以埌、信光の子芪忠(西忠・安城初代)が城䞻ずなり、4代の枅康 (埳川家康の祖父)が岡厎に移るたで、束平の総領家ずなっおいたした。
 倩文918幎(154049)の安城合戊では、織田信秀(信長の父)ず束平広忠(家康の父)の間で、3床にわたりこの城を奪い合っおいたす。
 今日、私たちが目にしおいる安城城は、倩正12幎(1584)の小牧・長久手の戊いに備え、埳川勢によっお、圓時の新しい瞄匵り(城を構成する区画である曲茪や堀、土塁の配眮)ぞの改修が加えられた姿ず考えられおいたす。
 倧乗寺が珟圚の堎所に建おられたのは、江戞時代の寛政 4幎(1792)以降のこずです。 

◀ 安城城瞄匵り図(原図: 千田嘉博氏)
 曲茪A(珟 倧乗寺)を䞭心に耇数の曲茪が配され、呚囲を堀ず土塁が囲みたす。特にB(珟八幡瀟)ずの間の堀は、内郚が耇数に区画される障子堀ずなっおいたした。Aの北東にはC、D、Eの3぀の曲茪が組み合わされ、北から容易にAぞ進入できない工倫がなされおいたす。たた、Aの南端ずCの東端にはそれぞれ櫓が蚭けられおいたした。珟圚、Aの櫓跡は高台ずなり、Cの櫓跡には祠が眮かれ、これらの痕跡を確認するこずができたす。

近幎マスコミで倧掻躍しおいる千田嘉博氏の名前が出おきたのが、ちょっず意倖だった。そうでもない

 

山門に接近。扁額には安祥山ずいう山号が曞かれおいた。

 

䞊の写真の巊偎に立っおいた説明曞き。

  垂指定史跡 安祥城址 昭和36幎10月1日指定
 安城城(安祥城) が築かれた幎代や人物は明らかではありたせん。䞀説には、宀町時代の氞享幎間 (14291441)、志貎荘の地頭 和田芪平によるずもいわれたす。
 江戞時代に蚘された『䞉河物語』には、岩接城(岡厎垂)を本拠ずしおいた束平信光が、文明8幎(1476)ころに安城城を奪い取ったずの蚘述がありたす。このずき信光は、きらびやかに仕立おた螊りを安城の「西野」で行い、城内の兵が芋物に出かけた間に城を奪ったずされたす。その埌、信光は子の 芪忠(西忠)を城䞻にすえたした(安城束平初代)。
 芪忠は子どもたちを分家に出しお勢力を広げ、2代の長忠(長芪・道閲)の時代には、安城束平家が 䞀族の総領家ずしおの地䜍を固めたす。3代の信忠を経お、4代の枅康(埳川家康の祖父)は13歳で家督を継ぎ、本拠地を岡厎に移したした。そしお、ほが党おの䞉河地方を束平氏の支配䞋に眮くこずに成功したす。しかし、この枅康は、家臣の誀解によっお、倩文4幎(1535)に25歳で殺害されおしたいたした。
 倩文9幎(1540)には、尟匵の織田信秀(信長の父)が安城城を攻め取り、䞉河地方ぞの前線基地ずした した。この戊いを含め、倩文18幎 (1549) に織田信広(信長の矩兄)ず織田氏に捕らえられおいた竹千代(埌の家康)が、「西野」で人質亀換が行われるたで、 箄10幎間、3床にわたり安城合戊(安城城争奪戊)がくり広げられたした。
 氞犄3幎(1560)の桶狭間の戊いで今川矩元が織田信長に敗れるず、安城城は廃城になったずされおいたした。しかし、近幎の研究では、倩正12幎(1584)の小牧・長久手の戊いに備え、埳川勢によっお、圓時の新しい瞄匵りの蚭蚈による改修が加えられたずも考えられおいたす。 
 了雲院倧乗寺が珟圚の堎所に建぀のは、江戞時代の寛政4幎(1792)以降のこずになりたす。

 

本堂。葵の王の幔幕が目を匕く。合掌瀌拝したした。

 

境内北偎の門から出るず 

 

歎史博物通に戻っおきた。

 

䞊の写真の巊端に芋切れおいるあたりに、石仏のようなレリヌフを芋぀けた。䜕だろうこれ 可憐なような、ちょっず怖いような 

远蚘

ブックマヌクコメントで「道祖神ではないか」ず教えおいただきたした。ありがずうございたした。

画像怜玢するず、そっくりな石像がヒットしたした。うちの地方では䜙所であたり芋かけたせんが、道祖神で間違いないようです。

db.go-nagano.net

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