しいたげられたしいたけ

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甲府城もまたいろいろと「家康の城」らしいと思った件

4月23日付拙記事に追記しようかと思いつつ、少し長くなりそうだったので別記事に起こしてみた。同日記事は、徳川家康の築城に共通した特徴が、名古屋城、駿府城、そして加藤清正へと継承された熊本城には見られるんじゃないかという内容だった。

www.watto.nagoya

  

甲府城の築城主は、甲府市の公式HPには豊臣秀吉だと記されている。

www.city.kofu.yamanashi.jp

 

ウィキペには、築城主を徳川家康とする説が古くから知られているとしつつ、それが否定に傾いた経緯が記されている。

ja.wikipedia.org

 

しかし個人的な意見としては、甲府城にも、名古屋城や駿府城に見られる家康の城造りの好みが色濃く漂っているような気がして、実際の築城の指示が秀吉によるものだとしても、関東移封前の家康による基本構想をそのまま踏襲したのではないかと強く感じるのである。

 

私の見るところの家康の築城の特徴というのを再掲すると、「舌状台地」すなわち平野に突き出した台地の先端に城を造りたがるということだ。それに加えて、自然の地形を最大限に利用して広い平地に防衛線を構築しようとする。名古屋城であれば東山丘陵と堀川(運河)が広い濃尾平野にカギカッコ型の防衛線を描いているし、駿府城であれば賤機山と日本平が形づくる静岡平野のくびれを抑えている。

 

4年前に甲府城址を訪れた ときのことを思い出してみると、天守閣跡の石垣の上から見て北東方向に丘陵地が迫っていたことを想起した。写真を1枚だけ再掲する。他の方角は甲府市街だった。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20150330/20150330152039.jpg

 

地図を見ると、ハート形をした意外と広い甲府盆地の、ハートの切れ込みの真下あたりに位置し、間近に見えるのは愛宕山という400mほどの山らしい。 

 そして拡大地図を眺めると、南方には笛吹川の支流の荒川という川がすぐそばを流れている。これを堀に見立てれば、甲府盆地に長めの防衛線を構築しようとしていると見て取ることはできないか?

 

甲府城、名古屋城、駿府城には、この「広い平地に自然の地形を最大限利用した長めの防衛線を引こうとしている」という特徴の他にも、あと2つほど共通点があるように思われる。

 

2つ目の共通点は、城主として将軍家の親族が配されるか、または城代が置かれるか(領土は直轄地)のどちらかだったということだ。

主にウィキペによると、江戸時代の甲府城の城主は、はじめ家康の九男の義直で、のちに名古屋城へと移った。その後、三代将軍家光の三男の綱重やその子でのちの6代将軍となった家宣の時代があり、例外となるが五代将軍綱吉の腹心であった柳沢吉保が封じられた時代があり、それ以外はずっと城代が置かれていたようだ。

名古屋城は義直を藩祖とする尾張徳川家代々の居城、駿府城は隠居した家康が自ら居城とした時代と、家光の弟の忠長が封じられた時代を除くと、やはり城代が置かれていた。

 

そして3つ目の共通点は、戊辰戦争においてせっかくの防衛線が用をなさず、新政府軍を素通りさせてしまったことだ(独自研究

名古屋城と駿府城については 4月23日付拙記事 で述べたので、甲府城についてのみ書く。

よく知られているように、城代だけでは不十分と見た幕府は、新選組の近藤勇を隊長とする甲陽鎮撫隊と呼ばれる援軍を派遣した。なお近藤はこのさい大久保大和と改名している。

 三谷幸喜は『新選組!』において、幕府の実権を握る勝海舟は戊辰戦争の結末を見抜きながら、いわば人身御供として近藤を新政府軍に差し出すことを企て、近藤は近藤で勝の意図を理解したうえで出陣を決意したように描いている。同ドラマ中屈指の名場面だったと思う。

検索したところ、詳細なあらすじを書いたサイトを見つけました。リンクを貼らせていただきます。

大河ドラマ「新選組!」のツボ 第47回 再会

いっぽう筒井康隆の短編『わが名はイサミ』においては、近藤はどっしょもねぇ無能として描かれている。甲州50万石は切り取り放題と言われ、出身地である多摩地方を進軍するにあたり、大大名に出世する前祝いだと宿泊先の村々でドンチャン騒ぎを繰り広げ行軍を遅らせに遅らせたあげく、新政府軍の甲府城入城をみすみす許すのである。

いらんことだが同短編中の、土方歳三の同性愛者としての描き方は、今日のPC的視点からは許されるものではあるまい。時代の変化は思いのほか早い。

『わが名はイサミ』の収録されている短編集は、Amazon では『夜を走る トラブル短篇集』が新刊入手可能のようです。 

夜を走る トラブル短篇集 (角川文庫)

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甲州勝沼の戦い - Wikipedia によると、板垣退助率いる新政府軍東山道派遣隊の甲府城入城は、甲陽鎮撫隊の甲府到着よりわずか1日早かっただけとのこと。近藤らは本気で戦うつもりだったと思う。

しかし、やはりウィキペ同項目によると、新政府軍は土佐藩兵約600名と鳥取藩兵約800名に対し甲陽鎮撫隊は約300名と兵力差は歴然であり、仮に甲陽鎮撫隊が先に甲府城入城を果たしていても長大な防衛線を構築するのは難しかったかも知れない。籠城して新政府軍の後方攪乱に徹すれば新政府軍の進軍スピードを制限することは可能だったろうが、維新の大局に影響を与えるには至らなかったであろう。

さまざまな想像が膨らむ局面である。

 

甲府城にしろ名古屋城にしろ駿府城にしろ、家康は自然地形を利用した防衛線を構想するとともに、城主に据えた親族分家が幕府江戸城の字義通りの藩屏となることを期待したのであろう。しかし260年の間に本家と分家の権力争いが絶えず、つか本家がだいたい横暴で、肝心の幕末乱世においてそれぞれ機能不全に陥っていたことは、誤算だったと言えるのではないか。

誰だったか「日本人を知りたければ徳川家康を研究しろ」という意味のことを言ったような、うろ覚えの記憶がある。ぐぐったら『覇王の家(上)』の amazon 書評が出てきたから、またしても司馬遼太郎だったかも知れない。確信はない。日本人の特性を知り抜いて、それらを江戸幕府の絶対的権力の確立に周到に利用し尽くした家康にしてみたら、珍しい誤算と言えるかも知れない。現代だって相続にからむ「争族」なんてのがあるのだけど。

覇王の家(上) (新潮文庫)

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家康の造った城でもう一つ有名どころとしては、京都二条城というのがあったな。

御所の南西に位置する二条城は、北方に船岡山という丘陵があり、東方に鴨川が流れ、いざというときはここを拠点として御所を京都盆地の中で孤立させようという意図があったのかも知れない。ただ船岡山はあまり高くも大きくもないし、船岡山、鴨川とも二条城からやや離れすぎているので、そんな想像をすることは自説に固執するあまりの牽強付会というものかも知れない。

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