🍉しいたげられたしいたけ

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所用で岐阜駅まで行ったついでに清水緑地と加納城跡を散策した

お出かけついでの散策の記録である。所用で岐阜駅まで行った。書いちゃうと日雇いバイトだが、派遣会社から守秘義務を課せられているので、そっちの内容は書けない。バイトテロなんか、しないっつーの。

早く終わるかなと思ったら早く終わった。早く終わることは予想されたので、事前にマップで散策できそうなところを探した。駅の北側は今月上旬に粕森公園と梅林公園を見に行ったので、ならば南側という単純な発想で、徒歩圏内にある清水緑地と加納城跡に行ってみた。

www.watto.nagoya

 

清水緑地。JR岐阜駅の南東側、至近である。小さな公園だが、大昔の個人的な記憶として、小学生のときに入っていた地区の「こども会」の遠足で、なぜか電車に乗って何度かここまで来たことがある。今にして思えば何しに来たのが疑問だが、子どものことで行き慣れないところにみんなで行けば、何かしら遊ぶことはあったのだろう。

ユキヤナギが咲いていた!

 

ウメかな? ウメにしては遅咲きだけど、Googleレンズで確認したらウメだと言われた。

 

あずまや。なぜか見かけるたびに撮っている。

 

足元にスイセンとムスカリ。ソメイヨシノの開花は予想より遅れているが、春の花は次々と咲いているのだな。

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加納城跡までは、10何分か歩いた。

 

まず立派な石垣が目に飛び込んできた。こちらは訪れるのは初めてである。

 

案内書きと地図。モクレンが咲いていた。

上掲写真左上の説明書きの和文だけを、Googleレンズで文字起こしした。

おおっ、Googleレンズは白抜き文字のままでも読んでくれるのか! 以前使っていたOCRソフトは、色調反転させる必要があった。

改行位置、変更しています。ルビ、省略しています。以下同じ。

加納城跡
徳川家康が諸大名に命じて再建した加納城。明治4年に廃城したものの、城跡には現在も門跡や石垣がその まま残っています。

加納天満宮
学問の神様である菅原道真をまつった神社。15世紀中頃に土岐氏の家臣であった斎藤利永が天満宮を 建立し、その後、徳川家康の命により現在の地に移転されました。

加納宿
中山道の宿場町でも数少ない城下町で、美濃中山道十六宿の中で最大規模の宿場。現在でも随所に道標や碑が残っています。

 

北側入り口。案内マップがあった。

本丸跡はトラックと芝生広場になっているようだった。ただし、それ以外にめぼしいものはないようだった。

 

入口左側にあった「加納城・城下町 案内」。

右側の説明書きを文字起こしした。

 加納城は、徳川家康が慶長5 (1600) 年の関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大数曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」 という景観でした。また、石垣などは関ケ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。
 初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌で10万石が与えられ、それ以降代々の城主は譜代大名が勤めました。明治維新の後、建物はすべて取り壊されてしまい、堀も埋められ、今では、本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、三の丸北東部分に当時を偲ぶことができます。
 今あなたが立っているところは本丸の北門にあたります。本来の本丸の 出入口である大手口は東側凸字形に出っ張った部分にありました。これは「外桝形」という、徳川氏が初期に作った城の特徴といわれる形です。
 昭和58(1983)年に本丸が国の史跡に指定されてから、発掘調査が行われ、江戸時代の加納城の地面の下に戦国時代の加納城の土塁が埋もれているのが確認されました。また、本丸の堀の底には「堀障子」と呼ばれる畝状の仕切りがあったことも分かりました。さらに二の丸では、当時使用されていた陶磁器が多数出土しました。
 城下町は加納城の北から西にかけて造られました。町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11(1634)年には「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が一つになりました。岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道、御鮨街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝でもありました。町の北西部と南西部に寺社が集中して置かれ、城の北と西側一帯、北の町外れにも武家屋敷がありました。
 美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、宝暦年代(1760年頃)、当時の藩主永井氏が財政の助けとするため奨励し、武士と町民の分業作業として発展しました。明治以後も加納の伝統産業として受け継がれてきています。

江戸期を通じてそれだけ徳川譜代大名とゆかりが深かったのであれば、去年のNHK大河ドラマ『どうする家康』放送中に岐阜市・岐阜県もコラボ企画をやればよかったのにと思うのだが、何かあったか思い出せない。いっぽう愛知県のはしゃぎっぷりは、まだ記憶に新しい。

代わりにつか何つか岐阜市・岐阜県は昔も今も織田信長推し一辺倒で、一昨年は 木村拓哉 さんが信長を演じた映画『レジェンド・バタフライ』公開時のフィーバーがすさまじかったのだった。

www.tokai-tv.com

 

その本丸跡。

看板はただの注意書きだったので、文字起こしはやめておく。

 

本丸跡周囲の土塁は立派だった。反対側は石垣だろうか。

植えられている裸木は、ひょっとしてソメイヨシノかな? もしそうだったら、大木だから開花したらさぞかし見事だろう。

 

南側出口。またしても案内板があった。

  国指定史跡加納城跡
 加納城は、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)に大坂城の豊臣氏への備えのため、徳川家康が中世加納城の跡地に築城を命じました。
 近世加納城の初代城主は、家康の娘亀姫の婿である奥平信昌で10万石を与えられました。江戸時代を通して奥平氏3代、大久保氏1代、戸田氏3代、安藤氏3代、永井氏6代の譜代大名が城主を勤め、永井氏の時に明治維新を迎え、城内の建物は解体されました。
 加納城は東と南は荒田川、北に清水川、西は長刀堀に囲まれた平城です。大手門は城の北側を通る中山道に面し、三の丸、厩曲輪、二の丸を経由して本丸に至ります。本丸南側には大藪曲輪があります。城下町は中山道沿い(加納宿)と長刀堀の西に広がります。
 絵図によれば、本丸、二の丸、三の丸、厩曲輪に櫓がありました。二の丸北東角(現岐阜地方気象台) には享保13年(1728)に焼失するまで、岐阜城の天守を移築したとされる三階の隅櫓がありました。
 本丸大手桝形の発掘調査では、土塁とその裾を巡る石垣や櫓門の礎石と雨落溝が見つかりました。本丸大手北堀の調査では堀底に畝状の仕切りを設けた障子堀が見つかりました。本丸南堀からは、肥前産磁器の碗や大皿、高級食卓塩の入れ物である焼塩壺、宴会や儀式で使用した土師器皿などが大量に出土しました。
 また、御殿があった二の丸からは、金箔を貼った土師器皿の他、食したアワビ、サザエなどの貝殻、アユやコイなどの淡水魚、タイ科、ニシン科、カレイ科など様々な海水魚、ニワトリやガン・カモ類、キジ類、ツル類などの鳥類の骨が見つかり、大名の豪勢な暮らしぶりの一旦を垣間見ることができます。

ツルって食えるんだ! 知ってたけど。

 

南門から出たところ。

 

広い駐車場があった。マップによると堀の跡だろうか。車で来る機会があるかわからないけど、無料駐車場があることは重要情報である。

 

帰途は、名古屋鉄道を利用するとしたら名鉄岐阜駅より加納駅または茶所駅のほうが近かった。

茶所駅を使うことにした。

駅の近くに立っていた「中山道 加納宿」マップと説明書きの石碑。石碑の左奥が名鉄の鉄橋である。

 中山道 加納宿
あなたが立っている道は、江戸時代の五街道の一つ、中山道です。
加納城下町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長六年(一六〇一)三月、
一〇万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備したことに始まります。
その後、寛永一一年(一六三四)には中山道の宿場に定められました。
城下町であり宿場町でもある加納宿は、二一の町からできており、
中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。
宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く
御鮨街道(岐阜街道・尾張街道) と交わっており、
交通の要になっていました。

 

茶所駅。相対式2ホームのみの小さな駅で、停車するのは各停のみである。

 

踏み切り待ち。

 

ホームで電車を待った。岐阜駅に向かう車両。

 

名古屋駅方面の電車、来た。

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