しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを求めない

北陸の車の便利がよさそうなところを何箇所か観光してきた(後編:吉崎御坊・丸岡城)

「大江戸温泉物語 片山津温泉ながやま」に一泊した二日目である。車の便利がよさそう、すなわち「ICから近い」「駐車場が確保しやすい」「ナビが教えてくれる」の三条件を満たしそうなところを、検索して選んでみた。

 

この日はまず、吉崎御坊蓮如上人記念館というところに行ってみた。「ICから近い」というより「片山津温泉から近い」かな? 下道だけ走って30分ほどだった。ICからも近いけど。

 

広々とした無料駐車場。浄土真宗の門信徒か、でなきゃマニアックな仏教好きじゃないと興味が向かないところかも知れない。

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蓮如上人とは室町時代の僧侶で、当時衰退していた浄土真宗の中興の祖と言われる。他宗の迫害を受けて一旦京都を追われ、この吉崎を再起の拠点としたことが知られている。

イスラームの開祖ムハンマドの生涯との相似を、過去記事にちょっと書いたことがあった。

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立派な建物だが、内部は展望台と土産物店、それに喫茶スペースだった。あとで公式HPを見たら「鳳凰閣」という名称らしい。

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階段を上がった左手あたりにあった案内板。

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上の建物の右側にあった「蓮如館」という資料館。鳳凰閣より小さいが、公式HPによると、ここがメイン施設らしい。

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展示品は、蓮如直筆の名号掛軸や、親鸞聖人絵伝、蓮如上人絵伝など。よく喋るおじさんが受付兼解説員を一人でやっていて、我々を含めて二、三組の入場者を相手に、蓮如の生涯をいろいろと説明してくれた。

「嫁脅し肉付きの面」の伝説は、真宗の家庭では年長者から幼な子におとぎ話のように語られているんじゃないかと思うが(うちだけ?)、舞台はここ吉崎だったのだ。当然ながら幼いころは、蓮如の名も吉崎御坊も知らなかったのだけど。

法話を語る蓮如のもとには、毎夜多くの地元民が詰めかけた。その中に若い嫁がいた。嫁の行動を快く思わない姑は、邪魔をするため鬼の面をかぶり嫁の通う夜道を待ち伏せた。だが嫁は驚かず、それどころか仏罰が下り面が顔から離れなくなった。姑が懺悔のため蓮如のところを訪れ、蓮如が念仏を唱えると、面は姑の顔の肉をつけたままボロリと落ちた、というグロい話。

だが今考えると、この話はいろいろと示唆的である。蓮如も元祖の親鸞も、都を追われ北陸路へと落ち延びてから、そこを拠点に勢力を盛り返した。それが可能だった理由の一つに、彼らが法話として語った仏法説話が豊富でエンターティメント性に満ちていたことがあったのではないだろうか? 地元の人々は、物語というものに飢えていたのではないか?

イメージを喚起する助けにならないかと思って、説話「貧者の一灯」を漢訳経典から訳してみた拙記事へのリンクを貼ってみる。仏典にはこのような物語の膨大な蓄積がある。夜な夜なこんな話をしてくれる坊さんが都からやってきたら、通ってみたくなると思いませんか?

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その他、蓮如には奥さんが5人いて、27人の子女がいて、などという話も聞いた。下世話なようだが、当時において多くの子を持つことは勢力拡大に直結したのだろう。徳川家康なんかもそうだったけど。

 

資料館の裏手には潟湖が迫っていた。

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 潟湖の対岸に見える形のよい島のような緑地は、マップで見ると「鹿島の森」というところらしい。

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資料館の裏手にあった「七不思議堂」という建物。

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上の写真の右下にあった説明書きを、ちょい接写。

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弊ブログ勝手に恒例、文字起こし。ルビ省略しています。改行位置変更しています。以下同じ。

登録有形文化財(文化庁)
吉崎御坊蓮如上人記念館 七不思議堂
 この建物は熊谷組二代目社長(元科学技術庁長官)である熊谷太三郎の夫人の実家・根尾家の主屋として明治十四年(1881)、越中富山の砺波に建てられ、昭和五十四年(1979)に熊谷太三郎がこの地に移築したものである。
 越中で活躍した著明な堂宮大工・松井角平が手掛け、「アズマダチ」と呼ばれる砺波地方の伝統建築に則した意匠と構造を今に伝える貴重な大型民家である。
 主屋は切妻造り、桟瓦葺きの木造一部二階建てで、妻を正面とし、柱や梁にはケヤキを中心とした北陸産の高級材がふんだんに使われている。とりわけ28畳の広間(居間)の幅二尺(60センチ)、長さ二十四尺(7メートル20センチ)の美麗な大梁を中心にした豪壮な梁組みは見事である。また、座敷周りには唐木の一種である檳榔子の床柱、一位と天然記念物・屋久杉の天井板等、現在では入手できない建材が使用されている。
 このように地域性溢れる伝統構造を継承するとともに、明治の風潮を加味した上質の風格ある建造物であることが、付属する露地門・高塀および供待と併せて評価された。吉崎御坊蓮如上人記念館では、この建物を「七不思議堂」として、地元吉崎に残る蓮如上人の伝承「吉崎七不思議」を福井の伝統工芸である越前紙人形、竹人形を用いて再現し、展示している。

 

歌碑もあった。

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蓮如上人記念館からちょっとだけ離れたところに、吉崎御坊跡の無料駐車場があった。

浄土真宗の聖地だけあって、周辺には本願寺派や大谷派の別院があり、土産物店も並んでいた。

無料駐車場に掲げられていた観光案内を二分割で。左半分。

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右半分。

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吉崎御坊跡にも行ってみた。小高い丘のようになっていた。

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周囲は寺院だらけだった。これは吉崎御坊跡のすぐ手前にあった寺院。願慶寺というらしかった。「嫁おどし肉附面」の実物(と伝えられるもの)があるとのことだったが、見なかった。

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案内板を接写。OCR にはかからなそうだったので、文字起こしは断念しました。

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吉崎御坊跡の石碑。

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蓮如上人像。高村光雲作とのこと。

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説明書きがあった。これも接写のみ示す。

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吉崎御坊の本堂跡の碑。

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蓮如上人御腰掛石。

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吉崎御坊跡から眺めた鹿島の森。絶景というものであろうか。

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北陸道に乗って、丸岡城址に移動した。丸岡ICから近いのだ。

 

あと調査の結果、江戸時代初期の創建と判明し「最古の現存天守閣じゃなかった」というニュースが最近報道されたのだった。それらが「行ってみよう」と思った理由。良きにつけ悪しきにつけ、ニュースになったら勝ちだよね。

digital.asahi.com

 

城址前の「一筆啓上館」という、土産物店と飲食店。この手前に広い無料駐車場があった。ところで「最古の天守閣じゃなかった」という話はおくびにも出していませんな、当然ながら。

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歴史民俗資料館。入館チケットは天守閣と共通だった。

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柴田勝家の甥・勝豊の創建、江戸時代にははじめ本多氏、のち有馬氏の居城になったことが解説してあった。また地元の祭礼の紹介があった。

 

民俗資料館ごしに見た天守閣。

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天守閣に上る経路上に掲げられた「日本一短い手紙」の看板。

こちらは文字起こしは十分可能のようだが、やめときます。

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本丸と言っていいのかな、天守閣前のスペースに出たところ。

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説明書きの石碑。

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丸岡城天守閣
「重要文化財
別名霞ヶ城」
 天正三年(一五七五)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在地の東方約四km)を攻略した。信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。
 天正四年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城となる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本田成重以下四代の居城となったが、元禄八年五月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、八代にわたって有馬家の領有することとなった。
 平章館(現在の平章小学校)の創設者、有馬誉純(三代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。
 明治三年三月、版籍奉還後、同四年九月官有となり、さらに民有に移り、明治三十四年八月町有となる。その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却または譲渡され、現在わずかに天守閣とその附近の石垣の小部分を残存するだけとなった。
 昭和九年一月三十日、国宝に指定されたが、昭和二十三年六月二十八日、福井大震災により倒壊、昭和二十五年八月二十九日、国の重要文化財に指定され、昭和二十六年十二月復元に着手、用剤は八十%近く古材を使用し、昭和三十年三月三十日修理復元され現在に至る。
 本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。構架法、外要ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、これは我が国城郭建築史上、現存の天守閣の中で、最古の様式のものである。

 天守閣の高さ 二二m(七二尺六寸)
   面積一階 一三七㎡
     二階  四〇㎡
     三階  四〇㎡
 石瓦の枚数 約六,〇〇〇枚
 総重量     七五トン

 

天守閣前には、こんな碑も立っていた。

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伝説「人柱お静」
 これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(一五七六)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。
そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮しをしていた片目のお静であった。お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。
 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ人々は“お静の涙雨”と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」いう俗謡が伝えられている。

 さきの「嫁脅し肉付きの面」といい、まだブログのネタにはしていないけど「柴田勝家公首なし行列」の伝説といい、それからお隣の京都丹後の「つかずの鐘」といい、なんとなく日本海側には悲痛な伝承が多いような気がする。

「つかずの鐘」は過去記事にしたことがあった。

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天守閣に接近。

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上の写真の左下、石段の上り口あたりに「石製しゃち」というのがあった。

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鯱(石製しゃち)
 この鯱は、もと木彫銅板張りであったものを、昭和十五年~十七年の修理の際に、石製の鯱に改めたものです。その当時は戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で、つくりかえられたものですが、この石製の鯱も昭和二十三年六月の福井大震災により落下、現在の様な形で残っているものです。
現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和二十七年~三十年の修復時に、もとの木彫銅板張りに復元したものです。 

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石段の下から天守閣を見上げたところ。

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石段を上ったところから、背後を見下ろしてみた。例によって遠慮して天守閣内部の写真は撮らなかった。

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天守閣奥側つか左側の石垣を少し下ったところにあった井戸。

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この井戸の由来
 天正三年(一五七五)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。豊原は一向一揆の最後の根拠地であった為、この地に築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてくることも、しばしばであった。しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に“かすみ”をかけて城の危機を救った。
 この伝説が別名「霞ヶ城」と呼ばれる所以である。現在も春先などに、すっぽりと“かすみ”に覆われた、「霞ヶ城」を見ることが出来る。

 

覗いてみた。

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城郭にとって、井戸などの水源の確保は非常に重要なのだ。

昨日のエントリー のコメント欄に 爽風上々(id:sohujojo)さんからいただいたコメントがきっかけで(ありがとうございます!)ちょっと調べたところ、金沢城址の兼六園にあれだけ豊富な水があるのは、実はとんでもなくすごいことじゃないかと思った。つまり「この城は水では落とせないぞ!」という無言のアピールだったのではないかという…

この件については、まとまったら独立したエントリーを書いてみたい。

 

井戸のある側から見上げた天守閣。

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城址にはいろんなものがあった。むろんコンプリートはできていない。

これは1960年建立の朝日両国親善の碑。

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植え込みのツツジが満開だった。

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