しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを求めない

岡崎城と三河武士のやかた家康館の「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」を見てきた(後編:天守閣周辺)

前回の記事の最後に示した「天下人家康公 出世ベンチ」の右手(西側)に、天守閣に渡れそうな橋があった。

立ち入り禁止だった。

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弊ブログ勝手に恒例文字起こし。和文のみ、改行位置変更、ルビ省略です。以下同じ。

廊下橋
 持仏堂曲輪と天守台を繋ぐ橋で、大正9年(1920)に現在のアーチ型石橋に改修されていますが、江戸時代は屋根付きの廊下橋が架けられていました。曲輪から天守へ直結する橋は珍しいものです。廊下橋を渡った正面の天守台石垣には鏡石(幅2.1m、高さ1.8m)が配置されています。 

屋根付きの橋というと、この半年だけで 平安神宮神苑福井城和歌山城 で見たぞ。流行ってるのか?(ないない 

 

渡れないのではしかたがない。空堀を見ながら左手(東側)方向に迂回した。

白百合が空堀にかかっていた。

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青海堀
 本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪を隔てる堀です。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「青海入道」に因み名付けられました。
 城内でも古い時代に構築されたと考えられる曲線的な堀です。本丸側は急斜面の土塁のままですが、対面側は後の改修により石垣が築かれたもので、築城の変遷が見られます。

持仏堂曲輪という名前が、後でまた出てくる。たぶん説明書きがあったのだろうけど撮りそこなった。

 

天守閣に向かって歩くと、さきの青海堀が右側に、この芭蕉句碑が左側に見えた。

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木のもとに汁も
 膾も左久良哉
   芭蕉
元禄三年三月二日伊賀の
小川風麦亭において
風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の
八吟四十句の発句である
   内田不賢の書

江戸時代は花見で刺身(膾)を食べたの?

今ならさしずめバーベキューだな。

 

本丸に侵入したらしい。

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本丸
 岡崎城の中心部で、松平清康(家康の祖父)が城主のときに八幡社が建てられていたことから「八幡曲輪」とも呼ばれます。城から北東方向の甲山から伸びる丘陵の先端に位置し、西は矢作川、南は菅生川(現在の乙川)に囲まれた天然の要害となっています。
 江戸時代には天守のほか、月見櫓や辰巳櫓など多くの建物が建っていました。

 

天守閣の手前に、立派な神社があった。「龍城神社」という扁額が掛かっていた。

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鳥居まで後ずさりすると、天守閣と神社拝殿がきれいに並んだ。

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天守閣前には、いろんな石碑が立っていた。

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東照公遺訓碑
 人の一生は重荷を負て遠きに道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。
  慶長8年正月15日
人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな。

 

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家康公遺言
わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変わらるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁惠を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかもうらみに思ふことなし

元和二年四月十七日
 家康公薨七十五才於駿府城

大樹寺五十七世
 宏天 謹書

 

これはカメに乗っているほうの説明書きだな。

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東照公遺訓碑由来
 この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
 翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和十八年三月九十八歳の天寿を全うされた。
 翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。
 碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する 竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
 碑裏面には、昭和十一年四月十六日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、遺訓碑が建立されて五十年、また、岡崎市制七十周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。
  昭和六十一年十二月二十六日
    岡崎市長 中根鎭夫

 

天守閣入口の直前に立っていたこの説明書きは、反射のため文字起こしができませんでした。一番肝心っぽい気がするのに、なんかすみません。

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天守閣入口。前回の記事に出てきた「グレート家康公『葵』武将隊 」と「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」の看板が出ていた。

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内部は撮影禁止のため写真はありません。

公式HPから大体の内容がわかるので、手抜きっぽいけどリンクを貼らせてもらいます。

岡崎城トップページ|岡崎城(天守閣)|特集|岡崎公園|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト

 

5F展望室は撮影可だそうだったので、四方の眺望を貼ってみる。いつものスマホカメラ写真なので、画質はたいしたことないけど。

東側。

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南側。

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西側。

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北側。

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筒状のものを覗くと、徳川家の菩提寺である大樹寺というのが遠望できるようになっていた。レンズは入っていない。屋内に固定式の望遠鏡がしつらえてあって、そちらからは、より詳細な眺望が得られた。

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城から出たところにあった看板。

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埋門〔うずみもん〕というところから城外に出た。

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本丸埋門石垣
 本丸に四箇所ある虎口(出入口)の一つ「本丸埋門」は、門の外側にも枡形があり、二重の枡形に守られた厳重な構造でした。現在のスロープ部分は階段であったと考えられます。
 埋門は石垣の間に埋もれるように門が構築され、石垣には門の横木が架け渡されていたことを示す痕跡が残るほか、「卍」や「井」の刻印もみられます。

 

空掘ばかりでなく、一部水堀になっているところもあった。噴水はたぶん水質改善のためだろう。

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出口はすなわち入口でもある。こちらから入る人のための道標があった。

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すぐそばに「えな塚」というのがあるようだったので、行ってみた。

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えな塚
 この城で生まれた徳川家康のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったものを、ここに移して記念とした。

どうすりゃいいんだ? 拝めばいいの?

森羅万象あらゆるものに敬意を払うべきだろうということで、手を合わせました。

 

本丸埋門北袖というところを経て…

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本丸埋門北袖石垣
 本丸埋門から北方向に延びる石垣で、高さは10mを超える大規模なものです。
 石材には大型の自然石や割石が使用され、大きさや形はやや不揃いながらも、横方向の目地の一部が揃うことから、持仏堂曲輪腰巻石垣より先行する江戸時代前期の構築と考えられます。

 

岡崎公園の南西隅にあたる竹千代橋というところから、公園を出た。

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竹千代橋を渡ったあたりから遠望した天守閣の写真。

8月26日付拙記事 に貼ったものだが、これを再掲して今回の締めにしよう。

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