しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを求めない

福井城址そぞろ歩きの記録

時系列的には 前々回記事 と 前回記事 の中間にあたるが、長くなりそうだったので別記事を起こした。JR福井駅西口から福井市立図書館への経路に、福井城址があったので散策してみた。

新しいスマホを持って出たので、電力を消費しそうなスマホカメラとマップをフルに利用してバッテリーがどれだけ持つかのテストという意味合いもあった。結果を先に書くと、フル充電して出かけ、200枚以上撮影して30%以上の残量があった。新しいのは七難隠すとはいえ、まあ十分な能力だろう。

いちおう予備としてコンデジも持って出かけたが、そっちは使わなかった。

 

福井鉄道の福井城址大名町という電停前から東に入ったところに、なにやら立派な神社があった。

f:id:watto:20190428123504j:plain

 

拝殿。葵の紋が目を引く。もちろんちゃんとお参りしました。

f:id:watto:20190428124042j:plain

 

ウィキペに項目があった。佐佳枝廼社〔さかえのやしろ〕という神社だそうで、祭神は徳川家康、福井藩藩祖の結城秀康、16代藩主の松平春嶽とのこと。なるほど。

ja.wikipedia.org

 

神社の右裏手に、公園への歩道橋があった。

f:id:watto:20190428124206j:plain

 

公園から右下手を見ると、立派な銅像が立っていた。

f:id:watto:20190428124209j:plain

 

銅像正面。岡倉天心像だそうだ。

f:id:watto:20190428124302j:plain

 

右下の銘板を接写。

f:id:watto:20190428124316j:plain

弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。ただし和文のみ。以下同じ。また今後ルビがある場合は省略します。

岡倉天心
1862-1913
哲学者 美術史家 世界人たる彼の理念は西洋を東洋の理想に目覚めさせました
 米国ボストン美術館
  官庁 ジャン ホンティン

 

傍らに、こんな説明書きも立っていた。

f:id:watto:20190428124336j:plain

岡倉天心 文久二年~大正二年「一八六二 - 一九一三」
名は覚三、越前藩士の子として生まれ、幼少より英文、漢籍に親しみ東京大学を卒業後に、文部省に奉職、日本美術の振興、文化財の保護に尽力、東京美術学校長を辞職後、雅邦、大観、春草、武山らを率いて日本美術院を創立し、近代日本画を育成、米国に渡りボストン美術館東洋部長として「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」など英文著書を著わす一方、米国各地で講演しその高い識見、円満なる人格は西欧人より深く尊敬された。
 初めて日本と東洋の「心」を西欧に紹介した超人的な業績は不滅であり、伝統の尊重と模倣を排し、創造を説いた言葉は永遠の真理として生き続けるであろう。
  昭和五二年(一九七七)十一月
 岡倉天心先生顕彰会
   会長 中川平太夫

 

公園案内図。右下に銅像が立っている。この公園を抜けると、福井城址の堀があるようだ。

f:id:watto:20190428124424j:plain

 

堀まで歩いてみた。

f:id:watto:20190428124540j:plain

 

この葉っぱは葉桜だな。サクラの盛りには、さぞかし見事だったろう。

f:id:watto:20190428124646j:plain

 

えむふぃぎゅあ(id:mfigure)さんが福井城址のお花見写真をブログに上げていたことを思い出したので、失礼してリンクを貼らせていただきます。

snep1000.hatenablog.com

 

堀端に、福井城初代藩主結城秀康の説明書きがあった。

f:id:watto:20190428124740j:plain

藩祖結城秀康公と福井城
~秀康の築城~
 結城秀康(ゆうきひでやす)は、天正2年〔1574〕徳川家康の次男として生まれた。天正12年〔1584〕羽柴秀吉の養子となり、秀康を名乗る。これは、秀吉と家康から各1字をとったものである。天正18年〔1590〕結城家の養子となり、下総(しもうさ)〔現・茨城県〕結城で10万余石を相続した。
 秀康は、慶長5年〔1600〕越前68万石を拝領、翌年入国と同時に築城にとりかかり、6年の歳月を要して、慶長11年〔1606〕に福井城を完成した。
 福井城〔北庄(きたのしよう)城〕は、広大な平城で本丸を中心にして、二の丸、三の丸、と幾重にも堀に囲まれていた。ことに、東側では旧吉野川を百間堀に改修している。
 外堀としては、南は足羽川、北は現在の光明寺用水路まで、東側には新川(あらかわ)〔現・荒川〕を掘削した。西側は、片町通りまで、その範囲は、おおよそ2キロメートル四方におよんでいた。外堀の内側には、武家屋敷が配置され、その外側には城下町が広がっていた。
 福井藩68万石の権威を象徴するのが、本丸の北西隅に聳(そび)える四重五階、望楼型外観四層の天守閣で、天守台を含めた高さは、実に30メートル余リにおよぶものであったが寛文9年〔1669〕の大火で焼失、再建されることはなかった。
 なお、本丸の北東・南東・南西の各隅には、艮〔うしとら、二層〕・巽〔たつみ、三層〕・坤〔ひつじさる、三層〕の御隅櫓(おすみやぐら)が建っていた。
~歴代の藩主~
 慶長12年〔1607〕秀康没後、嫡男松平忠直が68万石の大国を継承したが、故あって豊後〔現・大分県〕に左遷された。
 寛永元年〔1624〕、3代忠昌は、越前のうち50万石を拝領し北庄を福居〔井〕と改め、4代光通は、法令の整備や文教の振興などに力をつくした。しかし、貞享3年〔1686〕には、6代藩主綱昌は将軍の命で改易された。ところが名門の家柄により25万石が与えられ、5代昌親(まさちか)が再度7代吉品(よしのリ)と改名し継承した。そして吉品は、養浩館(ようこうかん)〔旧御泉水屋敷(おせんすいやしき)〕を造営した〔現在は、国指定名勝「養浩館庭園」となっている〕。
 その後寛延2年〔1749〕、11代重昌、以後4代にわたりー橋系徳川家が相続し領地も32万石となった。 15代斉善(なりさわ)は、将軍家斉(いえなり)の24男で、ついで16代慶永(よしなが)〔春嶽(しゅんがく)〕は、天保9年〔1838〕田安徳川家から福井藩に迎えられた。春嶽は、藩政改革を行い有能な人材の登用には、門閥に関係なく実行した。また、文久2年〔1862〕政事総裁職に就任し、幕政の改革など国政の中心を担った。
 このように福井藩松平家は、藩祖秀康以来、親藩の家柄として隆盛を誇ってきたのである。

 4月23日付の拙エントリー に、徳川宗家を紀伊藩出身の吉宗が相続して以来、御三家の最有力ライバルであった尾張藩は徳川将軍から徹底的に迫害された旨を書いた。

徳川家康の三男である二代将軍秀忠の子孫からすれば、家康の次男で秀忠の兄である結城秀康を祖とする越前松平家は、吉宗の子孫にとっての尾張家のようなもので、うっとうしい存在だったのかも知れない。だから福井藩は、このような減封につぐ減封という仕打ちをうけたのではあるまいか。

そして幕末の福井藩主・松平春嶽も、明治維新において少なからぬ役割を果たしたことは、衆人の知る通り。なんというか皮肉なめぐり合わせを感じる。

 

福井城本丸には現在、福井県警(左のタワー)と福井県庁(右の建物)が入居している。

f:id:watto:20190428124821j:plain

 

「御本城橋」。今後、目印としてときどき言及します。

f:id:watto:20190428124839j:plain

 

橋を渡ったところに、結城秀康の石像があった。

f:id:watto:20190428124955j:plain

 

説明を記した石板。上の写真では右奥の台座の下に少し見えている。

f:id:watto:20190428125013j:plain

結城秀康公
慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いの後、越前六十八万石の大名となった結城秀康公(徳川家康の次男)は、翌六年に北庄(後の福井)に入り、新しい城の建設と、柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手した。多くの民の力と汗に支えられ、およそ六年の歳月をかけて完成した城下は、都市としての福井の原型をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。
平成十四年四月
(財)歴史のみえるまちづくり協会

 

石像のそばに案内書きが立っていた。

f:id:watto:20190428125041j:plain

 

左上の方の、和文の説明文を接写。

f:id:watto:20190428125053j:plain

 ここは、福井城の本丸跡で、周囲の内堀は往時のままです。福井城は慶長6年~11年(1601~06)に徳川家康の次男、結城秀康によって築城されました。秀康時代の福井城の建物は寛文9年(1669)に焼失してしまいましたが、図は焼失以前の福井城本丸の様子を復元したものです。
 藩の権威を象徴していたのが本丸の北西隅に聳えていた天守で、高さが約30mという壮大な建物でした。中央には藩政において最も重要な本丸御殿がありました。北東・南東・南西の各隅には3つの櫓が建っていました。南側の御本城橋が本丸への正式な通路で、この橋を渡ると、本丸の正門である瓦御門がありました。西側には屋根付きの御廊下橋もかかっていました。現在の御廊下橋は平成20年に史料に基づいて再建されたものです。平成30年には御廊下橋につながる山里口御門が明治時代の古写真や史料に基づいて復元されました。

スポンサーリンク

 

 

福井県警と福井県庁の庁舎の間に、こんな案内板が立っていた。

f:id:watto:20190428125208j:plain

この先に
 天守台・山里口御門があります。
天守台には階段で上がることができます。福の井を御覧になるなどお楽しみください。
山里口御門は、自由に見学できます。

 

天守台の案内書き。

f:id:watto:20190428125316j:plain

 

説明書きを接写。

f:id:watto:20190428125328j:plain

福井城天守
 福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長六年(一六〇一)から約六年をかけて福井城(北庄城)を築城し、本丸には壮大な天守が偉容を誇っていた。
 残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、最下層の階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が五階になっている。絵図では高さが、約三〇メートルあり、天守台を含めると約四〇メートルにもなる。
 今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、天守台の北半分に天守が建っていたのであろう。
 四層五階の壮大な天守も、寛文九年(一六六九)四月の大火で焼失して以来、再建されることはなかった。

 

天守台に上る石段。

f:id:watto:20190428130529j:plain

 

上ったところに石碑が2基あった。

f:id:watto:20190428125427j:plain

 

左側。古いほう。

f:id:watto:20190428125438j:plain

天守閣跡と福の井
ここは福井城の天守閣跡である 福井はもと北ノ庄城と稱せられ 慶長六年福井藩祖徳川秀康之を改築して ここに天守閣をきずいた 爾来明治維新まで約二百六十年間、當城は福井藩主松平家の居城であった
ここにある古い井戸は福の井と稱せられ當城の改築以前からここに存し 名井戸として知られていた 寛永元年(紀元二二八四年)當地の名稱北ノ庄が福井に改稱されたが その由来はこの福の井の名に因んだものと傅えられている

 

右側。黒いほう。

f:id:watto:20190428125455j:plain

寄贈記念碑
 福井城本丸跡の濠および石垣は、故加藤尚氏の御意思により県に寄贈されたものであります。
平成元年六月吉日
 福井県知事 栗田幸雄

 

右手の方に「福の井」があった。

f:id:watto:20190428125523j:plain

 

右の方に写っている説明書き。

f:id:watto:20190428125542j:plain

 福井城天守台「福の井」
「福の井」の歴史
 「福の井」は慶長6年(1601)の北ノ時庄城(後の福井城)築城当からあった井戸と考えられます。安永4年(1775)の御城下絵図の天守台には「福井」と記された井戸が描かれています。この頃には一般に「福の井」と呼ばれ、福井城の特別な井戸となっていたことがうかがえます。
 福井藩の正史である「越前世譜」に「北庄を福井と御改候事(天守之傍ニ福井と云名有、其名依而被改之」とあるように、名井「福の井」が福井の名の由来になったという説も生まれました。しかし実際は寛永元年(1524)、福井藩第3代藩主松平忠昌が「北ノ庄」の名は敗北につながるとして「福居」に改名し、それが1700年頃に「福井」となったと考えられています。
 昭和23年の福井地震では、本丸の石垣がいたる所で崩れました。「福の井」は崩壊することはありませんでしたが、井戸の形が大きく歪んだことから、震災後に井戸枠が大きく作り変えられました。
「福の井」の再整備
 「福の井」のかつてをしのび、さらに親しんでいただけるように、井戸の石積みや井戸枠を福井地震前の大きさに復元整備しました。井戸の石積みは割れていて使えないものを除き、昔のままの石を使用しています。整備に先立ち発掘調査をおこない、現在の地盤から約60センチ下で見つかった笏谷石製の石敷きや排水溝も復元しました。井戸の上屋や釣瓶は修景施設として新たに設置し、平成29年(2017)3月に完成しました。
 現在の「福の井」は、口径約1.5m、深さ約5.1m、水深約2.1mです。

 

覗いてみた。怖えーよ!

f:id:watto:20190428125645j:plain

 

お茶の無料試飲会をやっていた。歩き回っていたので美味しかった。

f:id:watto:20190428125726j:plain

 

このあたりを控天守台というのだそうだが、石垣が一部崩れていた。

f:id:watto:20190428125923j:plain

この控天守台跡の石垣には福井震災(一九四八年六月)等による崩壊の跡が残っています。
厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができます。

 

別角度。

f:id:watto:20190428125945j:plain

 

もう一枚。上の写真の右のほうである。

f:id:watto:20190428130136j:plain

 

天守台を裏手から下りようとしているところ。

f:id:watto:20190428130033j:plain

 

城の北側というか裏手というか「御本城橋」と反対側の堀を見下ろしたところ。

f:id:watto:20190428130220j:plain

 

石垣を下りる階段に、こんな案内書きの看板が掲げてあった。

f:id:watto:20190428130250j:plain

◇塀の痕跡
 下から3段目の石にみられる八の字形の搆は、ここに取り付いていた塀の屋根の垂木あるいは屋根板が食い込んでいた跡です。
 ハの字の横幅は約1、2メートルと小さなものですから簡素な板塀と思われます。
 現在の高さは1、1メートルあまりで低いですが、福井城時代の地表面は現在より1メートルほど下にあるので、塀の高さは2メートルくらいあったと考えられます。
◇刻印
 1段目の石に彫られた十字形の印は刻印といいます。
石を切り出したり、納入した石工の目印、あるいは石垣を築く時の目安などと言われています。他のお城でも見られますが、なぜ刻印がつけられたのか、確かなことは分かっていません。

 

この看板の上から見下ろすように撮った実物。

f:id:watto:20190428130314j:plain

 

県庁舎方向に戻ろうとしたら、石垣のふもとに可憐な池があるのに気がついた。

f:id:watto:20190428130416j:plain

 

スイレンが浮かんでいた。

f:id:watto:20190428130452j:plain

スポンサーリンク

 

 

天守台前を通り過ぎて西に進むと、再建ほやほやの「山里口御門」という門があった。

f:id:watto:20190428130542j:plain

 

櫓門の2階は自由に見学できるとのことだったので、入ってみた。

写真撮影はOKかどうかわからなかったので、内部の写真はありません。

f:id:watto:20190428130557j:plain

 

2枚上の写真の左側出口をくぐったところ。

f:id:watto:20190428131304j:plain


振り返りざまに櫓門を撮ったところ。

f:id:watto:20190428131319j:plain

 

2枚上の写真の右側の出口から出たところ。奥に御廊下橋という屋根付きの橋の入口が見えている。

f:id:watto:20190428131343j:plain

 

振り向いて、今出た出口を見たところ。

f:id:watto:20190428131359j:plain

 

上の写真の左下の案内書きを接写。

f:id:watto:20190428131335j:plain

 山里口御門は、福井城本丸の西側を守る門として築城当初からあり、「廊下橋御門」や「天守台下門」とも呼ばれていました。
寛文9年の大火時に焼失してしまいましたが、その後再建されました。
 藩主の住居である御座所が、西三ノ丸にあった松平慶永(春獄)などの時代には、藩主は御座所から御廊下橋を渡り、山里口御門を通って、本丸へ向かったと考えられています。
 御門は、外側の棟門と内側の櫓門で構成され、櫓の内部は、武具庫などに使用されていました。

 

御廊下橋の入口。f:id:watto:20190428131445j:plain

4月4日付エントリー に平安神宮の神苑の池に架かっている泰平閣という屋根つき橋の写真を貼った。似ているかなと思ったが、見返してみるとあまり似ていなかった。あちらは塀がなく四阿風だったのだ。

 

御廊下橋の格子窓から、南側(「御本城橋」方面)の堀を見たところ。

f:id:watto:20190428131507j:plain

 

反対側の北側の堀を見たところ。

f:id:watto:20190428131517j:plain

 

やはり北側の、石垣を見たところ。

f:id:watto:20190428131529j:plain

 

橋を通り抜けたところにあった案内書き。

f:id:watto:20190428131636j:plain

 福井城址 御廊下橋
 福井城と御廊下橋
 関ヶ原の戦いの後、越前に封じられた福井藩初代藩主結城秀康によって築かれた福井城は、本丸を中心に、堀と郭が幾重にも巡らされる典型的な環郭式平城で、徳川家康の次男の居城に相応しい壮大な城郭でした。
 本丸内には、政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積一千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主の内、昌親(後、吉品)・重富・治好・慶永(春嶽)・茂昭の五人は、現在の中央公園にあった西三ノ丸御座所に居住していたとされます。(松平春嶽著「真雪草紙」)
 藩主が政庁であった本丸と西三ノ丸御座所とを往復するための専用の橋が、御廊下橋でした。明治初期に撮影された写真(福井市立郷土歴史博物館蔵)によると、この橋は屋根付きの珍しい形態でした。
 御廊下橋の復元
 福井県と福井市は、福井城築城四百年を機に、この橋を復元することにより、県民市民の皆様に故郷の歴史に親しんでいただき、また、故郷への愛情、誇りを思い起こしていただきたいと考え、皆様との協働による復元に着手しました。
 史実に忠実な復元とするため、専門家で構成した「復元考証専門委員会」による検討を重ねたほか、県民市民の代表で構成した「整備推進委員会」において、この事業の意義を多くの方々に知っていただき、また、事業への参画を推進していく取り組みを企画しました。
 「ワンコインサポーター運動」「ヒノキ板購入運動」はその一環として実施したものであり、多くの方々の参画をいただきました。
 ご協力いただきました募金、寄付金は、この案内板の設置に充てさせていただきました。
   平成二十年三月

 

渡った反対側から橋と県警庁舎を眺めたところ。

f:id:watto:20190428131641j:plain

 

堀越しの山里口御門と御廊下橋。

f:id:watto:20190428131711j:plain

 

福井城の案内書きがあった。

f:id:watto:20190428131804j:plain

 天正3年(1575)に織田信長は重臣柴田勝家へ越前8郡をあたえましたが、その際に勝家は足羽川と北陸道が交わる交通の要所であった北庄(後の福井)に城を築きました。その後、慶長5年(1600)の関ケ原合戦で東軍(徳川方)が勝利すると、結城城主であった結城秀康(1574~1607)は、父徳川家康から越前国68万石を拝領して、初代福井藩主となりました。翌年、越前に初入国した秀康は、直ちに福井城(当時の名称は北庄城)の大修築に取り掛かり、同11年には四層五階の天守のある壮大な城が完成しました。
 福井城は平地に造られた平城で、本丸を中心にお堀と郭(曲輪)が四重、五重に取り囲む環郭式城郭と呼ばれるものです。本丸の西側、福井市役所の北側に位置する中央公園は、西二ノ丸や西三ノ丸のあった場所で、西三ノ丸には藩主の住居である御座所が設けられていました。西三ノ丸の西方には、大名広路(現在のフェニックス通り)があり、通りに面して家老職などを勤める上級家臣(高知席)の屋敷が建ち並んでいました。

 

福井城址公園の北西隅に、鳥居があった。

f:id:watto:20190428131909j:plain

 

上の写真の左端に見える社標。

f:id:watto:20190428131927j:plain

 

社標の案内書き。

f:id:watto:20190428131938j:plain

この社標は福井神社が創建されました際、当時参道入口(現在福井城内濠西南角道路)に設置されたものでありますが、昭和二十三年六月二十八日の福井地方大震災により二米ほど離れた濠の中に倒落し埋没しておりましたところ、昭和五十八年内濠浚渫の折発見されたので、これを引揚げ今回の当神社四十年式年祭を機に記念として復元設置したものであります。
 昭和五十八年十月十日
  福井神社奉賛会

 

拝殿と拝殿前鳥居。いずれもコンクリート製で独特の形をしていた。もちろんちゃんとお参りしました。

f:id:watto:20190428132003j:plain

 

福井神社に関しては、ウィキペに項目があった。コンクリート製の拝殿や鳥居は、福井大学工学部の五十嵐直雄設計によるものだそうだ。

ja.wikipedia.org

 

拝殿の左側にあった松平春嶽の銅像。祭神である。

f:id:watto:20190428132206j:plain

 

上の写真左に見切れている説明書き。

f:id:watto:20190428132223j:plain

松平春嶽 Shungaku Matsudaira(1828-1890)
 松平春嶽は、幕末から明治時代の大名、政治家です。
 11歳のときに越前松平家の養子となリ、福井藩の殿様となりました
 春嶽は、由利公正、中根雪江、橋本左内といった有能な人材を登用するなどして、当時、深刻な財政難に苦しんでいた福井藩の政治改革に取り組みました。また、早くから「外国と国交を樹立し貿易をすべきだ」という開国論を主張しました。
 その後、将軍の跡継ぎ問題で大老井伊直弼と対立したため、藩主の地位を追放されました(安政の大獄)が、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、春嶽は政事総裁職という役につき、参勤交代制を緩めたり、洋式の軍制を新しく取り入れたりしました。

 

堀の北側に沿って歩きながら、城址を何枚か撮ってみた。

f:id:watto:20190428132844j:plain

 

説明書きがあった。

f:id:watto:20190428133033j:plain

 

接写。必然性は薄いが今回のエントリーはこれで締めとする。時系列的には前回のエントリーに続く。

f:id:watto:20190428133004j:plain

福井城下の歴史
History of Fukui Castle Town
 江戸時代有数の都市であった福井は多くの人材を輩出している。
秀康の家老である本多富正は芝原上水を開き、彼の屋敷周辺は1万石以上の家臣の屋敷が並び「大名町」の名が残る。
 芸術工芸面では、江戸初期の絵師岩佐又兵衛、刀工下坂康継等が著名である。
 特に幕末期の人材は豊かで、第16代藩主であられる松平春獄(慶永)のもとには、中根雪江、鈴木主税、橋本佐内、光岡八郎(由利公正)、熊本藩から招いた横井小楠等が、高い識見と理想を掲げて活躍した。また天然痘防止のため種痘に生涯を捧げた医師笠原白翁や、清貧の生涯を送った歌人橘曙覧も、幕末期の福井の歴史に光彩を放っている。

スポンサーリンク