しいたげられたしいたけ

拡散という行為は拡散者も元発信者と同等以上の責任を負う

スコ個展に行く道すがら大阪城をいい加減に見てきた

前回のエントリー中に書いた通り、スコ個展を見に行くついでに、大阪の名所を何か所か見てこようと思った。

で、ベタベタだがまずは大阪城を選んだ。こういう機会でもない限り、見てこようという気にならないのではと思ったのだ。

 

大阪城公園の北東にある大阪環状線の大阪城公園駅で下車し、公園南西にある大阪メトロの谷町四丁目駅に抜ける感覚で、公園内を対角線に横切ろうと考えた。

タイトルの「いい加減に見てきた」というのは、くまなく見て回ったのでなく斜めに突っ切ったという意味です。

f:id:watto:20191019112608j:plain

f:id:watto:20191019112559j:plain

f:id:watto:20191019113008j:plain

三枚目の門標のみ、前回拙エントリーの再掲です。

 

駅の目の前にあった石像。

f:id:watto:20191019113246j:plain

f:id:watto:20191019113255j:plain

この向こう(写真左手奥)に、飲食店街があった。

公式HP「特別史跡 大阪城公園」中のマップによると、このあたりのエリアを「ジョー・テラス・オオサカ」というらしい。

 

食欲をそそるサンプルをショーケースに並べた食堂があった。いつぞやのお茶漬け専門店といい、飲食店に関する限り大阪はラグビー界におけるオールブラックスのような別格感がある、と時事ネタ的に喩えてみる。

f:id:watto:20191019120807j:plain

f:id:watto:20191019120830j:plain

 

昼食の時間には少し早いかなと思ったが、入ってしまった。豚汁と塩サバ定食というのを頼んだ。

f:id:watto:20191019115624j:plain

 

ジョー・テラス・オオサカには、いろんなものがあった。そのうちの一つ、機関車風の牽引車に牽引されるトロッコ列車の始発駅。乗らなかったけど。

f:id:watto:20191019113659j:plain

f:id:watto:20191019113820j:plain

 

マップを頼りに本丸を目指して歩くと、正面に大阪城ホールが見えた。

韓流アイドルグループEXOの公演があったようで、入場客のいつ果てるとも知れぬ長い行列が続いていた。確認のためぐぐるとEXOを韓流というのは不正確かも知れないが、じじいにはわかりません。

f:id:watto:20191019121132j:plain

f:id:watto:20191019121423j:plain

 

行列を右手に見ながら歩を進めると、本丸が見えてきた。

f:id:watto:20191019121551j:plain

 

堀でかっ!案内板によると東外堀というそうだ。

f:id:watto:20191019121655j:plain

f:id:watto:20191019121638j:plain

弊ブログ勝手に恒例OCRによる文字起こし。改行位置変更しています。ルビ省略します。外国語併記ある場合は和文のみです。以下同じ。

東外堀
大阪城二の丸の東に位置する水堀で、北が青屋口、南が玉造口である。元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。本来は青屋口より先の北外堀とつながっていて、総延長はあわせて約3キロメートル、堀の幅は最大約90メートルである。幕府の命令によって動員された大名は、加賀金沢藩前田家・越前北庄藩(福井藩)松平家・土佐高知藩山内家など16家。大正年間、大阪砲兵工廠の敷地拡張にともない北外堀を残して埋め立てられた。平成9年(1997)、東外堀とつながらないままではあるが、現在の姿に復元された。

 

堀は、一部途切れたところを渡って越える。城郭のことで、クランクが連続する。クランクとは言わず「枡形」と言うらしい。

f:id:watto:20191019121915j:plain

 

堀を越えたところにある青屋門という門。

f:id:watto:20191019121959j:plain

f:id:watto:20191019122023j:plain

青屋門
 青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形【ますがた】の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓【やぐら】を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形【でますがた】だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆぶ算盤橋【そろばんばし】で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

 

内堀と、内堀に架かる「極楽橋」という橋。

f:id:watto:20191019122239j:plain

f:id:watto:20191019122334j:plain

f:id:watto:20191019122340j:plain

極楽橋
 山里丸と二の丸とを結ぶ橋である.豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、
97年後となる昭和40年(1965)に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚【きょうきゃく】・主桁【しゅげた】を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な疑宝珠高欄【ぎぼしこうらん】としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

 

極楽橋を渡ったあたりに、巨大な石材がゴロゴロと並んでいた。石垣に使われる予定で使われなかった石と思われる。

f:id:watto:20191019122546j:plain

f:id:watto:20191019122556j:plain

f:id:watto:20191019122615j:plain

工事を担当した大名ごとに、刻印が異なるらしい。嵌まっている金属プレートは、それを説明したものである。

 

3枚上の写真で石材の向こうの枡形を直角に折れたあたりで、大阪城天守閣が「おおっ!」という感じで雄姿を現した!

f:id:watto:20191019122719j:plain

 

マップで確認すると、上の写真は天守閣を北側から眺めていることになる。

天守閣に入場するためには、正面すなわち南側に回る必要がある。

 

天守閣の東側を南下した。

f:id:watto:20191019122835j:plain

 

天守閣を左側(西側)に見ると、右側(東側)には大阪市中心部の市街が広がっている。

f:id:watto:20191019122843j:plain

 

天守閣の南側まで歩いた。

f:id:watto:20191019122930j:plain

 

「残念石」という石碑があった。

f:id:watto:20191019123001j:plain

f:id:watto:20191019122951j:plain

「残念石」
 両横に鎮座しているこの石は元和六年(1620)から始まる大阪城修復の時天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、いまなお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれている。
 この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場で見つかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
 これらの石を、小豆島青年会議所が創建十周年の記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い、「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。
 昭和五十六年七月十九日
  (社)大阪青年会議所
  (社)小豆島青年会議所

 

入場チケット売り場。

f:id:watto:20191019123028j:plain

 

天守閣入口付近には、大砲が鎮座していた。

f:id:watto:20191019131514j:plain

f:id:watto:20191019131522j:plain

号砲
 この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm先込め式の旧式砲で、材質は青銅のー種とみられる。
 1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鉄工・百斉清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
 明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12~3年(1921~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

 

天守閣内部は撮影禁止だったので写真はありません。8階建て最上階の展望エリアのみ撮影OKだったので、例によって四方の写真を貼ります。

北側。

f:id:watto:20191019125829j:plain

f:id:watto:20191019125837j:plain

 

西側。

f:id:watto:20191019130252j:plain

f:id:watto:20191019130026j:plain

 

南側。

f:id:watto:20191019130111j:plain

f:id:watto:20191019130104j:plain

 

東側。

f:id:watto:20191019130152j:plain

f:id:watto:20191019130143j:plain

 

天守閣から出たところに井戸があった。城にとって井戸は大切な存在だから、どこでも大事にされているようだ。

f:id:watto:20191019131556j:plain

f:id:watto:20191019131616j:plain

重要文化財 金明水井戸屋形
 大坂城の小天守台【しょうてんしゅだい】にある井戸を金明水といい、それを覆う面積11.55平方メートル、高さ5.2メートルの建物を金明水井戸屋形という。井戸は水面まで約33メートル、井筒は一個の石をくり抜いたもので、外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われているが、戦後の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大坂城再築工事にともない寛永元年(1624)に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は同3年(1626)に創建された当時のもので、同じ年に築かれた天守が寛文5年(1665)に焼失した際にも類焼をまぬがれたことが判明した。なお江戸時代この井戸は黄金水【おうごんすい】と呼ばれ、本来の金明水(金水) は天守の東側、現在の配水池のあたりにあった。

スポンサーリンク

 

 

南下して本丸を出ようとしたところにあった巨石。

でかっ! とにかくでかっ!

f:id:watto:20191019132001j:plain

f:id:watto:20191019132031j:plain

f:id:watto:20191019132015j:plain

桜門枡形の巨石
 桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。

 

その桜門というところを通って本丸から出ようとしたところに、今度は「銀明水井戸」というのがあった。

f:id:watto:20191019132048j:plain

f:id:watto:20191019132058j:plain

銀明水井戸の井筒
 この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などを井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今は配水池に埋もれていて目にすることができない。

確かに和歌山城でも「銀明水」というのを見た。「金明水」は、そういうのがあると案内板に書いてあったが、実物は観ていない。

和歌山城址を無計画観光(前編:新大阪駅から和歌山城本丸御殿址まで) - しいたげられたしいたけ

 

そしてこれが桜門。

f:id:watto:20191019132123j:plain

f:id:watto:20191019132112j:plain

重要文化財 桜門
 本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。

 

本丸外に出て振り向きつつ撮った桜門。巨石の向こうに天守閣。

f:id:watto:20191019132144j:plain

 

本丸の南側にあった豊国神社。お参りしました。

f:id:watto:20191019132234j:plain

f:id:watto:20191019132253j:plain

f:id:watto:20191019132325j:plain

 

城外に出るのに、「千貫櫓」「多門櫓」という2つの立派な櫓を通過した。案内板ともども写真は撮ったが、今回は長くなったので失礼して省略。

追手門の写真のみ示す。

f:id:watto:20191019133242j:plain

f:id:watto:20191019133231j:plain

重要文化財 大手門
 城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。

 「一見不可能にしか見えない技法が駆使」されたという継手の実物は見ていなかった。

どんなのだろうと検索したら、画像による解説がいっぱいヒットした。

「なるほど!」と思ったものの、これもまたネタバレというやつで、実物を見て不思議に思って、しばらく悩んでから調べるべきだったな。もったいない。

 

ということで、少し歩いて谷町四丁目駅に到着。

f:id:watto:20191019134034j:plain

 

個展会場である「あべのま」最寄り駅である大阪メトロ谷町筋線阿倍野駅を目指したのであった。

f:id:watto:20191019134500j:plain

スポンサーリンク