🍉しいたげられたしいたけ

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家康の城の造り方(だがしくじった?)

名古屋城本丸御殿を見たあと、ぼーっと考えた。

平野に突き出した台地のことを「舌状台地〔ぜつじょうだいち〕」と言うんだそうだ。

徳川家康は、舌状台地の先端に城を造るのを好んだのではなかろうか?

 

江戸城が麹町台地と呼ばれる台地の東端に造られていることは、よく知られている。

静岡市の駿府城には、先端に浅間社を擁する賤機山〔しずはたやま〕という細長い特徴的な形状の丘陵地が間近まで迫っている。

名古屋城なのだが、熱田台地と呼ばれる台地の北端にあり、南端に熱田神宮があることは、ウィキペ「熱田台地」にも書いてあり「ブラタモリ名古屋・熱田編」でも取り上げられた。だが南北方向より名古屋城から見て東側の東西方向のほうが、台地の標高が高く特徴的に見えるのではなかろうか? 東山公園、藤が丘を経て長久手、愛・地球博記念公園、さらには尾張丘陵へと連なる、やはり細長い丘陵地である。

 

確認のためぐぐっていたら、面白いサイトを見つけた。国土地理院がデジタル標高地形図をネットで公開していたのだ。

デジタル標高地形図で見る東海地方の凸凹(DEM版)|国土地理院

一部、引用させていただきます。

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デジタル標高地形図で見る東海地方の凸凹(DEM版)| 名古屋北部
http://www.gsi.go.jp/chubu/dem/nagoyahokubu_dem.pdf

左下に名古屋駅、名古屋城は左から1/4くらいのところに、右端に丸いナゴヤドームがある。色分けは黄色が標高12m以上、薄いオレンジが14m以上、濃いオレンジが16m以上、その他はリンク先の凡例を参照願います。

東西に比べると南北の標高はやや低いが、代わりに西側に人工の運河である堀川が掘削されている。名古屋城自体が巨大な要塞ではあるのだが、広大な範囲にわたって鉄壁の守りを固めようとしていることが見て取れるようだ。

 

参考までに駿府城周辺も。

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デジタル標高地形図で見る東海地方の凸凹(DEM版)| 静岡東部
http://www.gsi.go.jp/chubu/dem/shizuokatoubu_dem.pdf

駿府城は左端に見える。右側の日本平の巨大さが印象的だ。グーグルMAP のようには範囲移動や拡大・縮小が自由ではないので、賤機山をもうちょっとよく見えるように表示できないのが残念だ。

駿府城の右側(東側)にも、細長い丘陵地がある。そう言えば静岡電鉄の車窓から緑が見えたな。検索すると谷津山〔やつやま〕という標高100mほどの里山だそうだ。

濃尾平野ほどではないにせよやはり広大な静岡平野を、最狭部で扼そうとしているかのようだ。

 

3月11日付拙エントリー に「駿府城から浅間社への抜け穴ぜってーあるよね」と書いてしまったけど、抜け穴が重要ではなく、高所に布陣できることこそが重要だったのだきっと。孫氏に「兵力が10倍あれば囲み、3倍あれば攻めよ」という言葉があるそうで、攻撃側は防御側より何倍もの兵力が必要だそうだ。そりゃそうだろう。万里の長城と言わなくても、自然丘陵でも高所に布陣したほうが有利なことは、軍事のシロウトでも想像がつく。

同日エントリーより写真を一枚だけ再掲。静岡城北公園の南西口から、向かいの賤機山を見たところだ。この稜線に布陣したら、手ごわそうだと思いませんか?

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20190311/20190311131351.jpg

江戸開府時における最大の仮想敵は、西国外様諸大名だったと言われる。歴史を結果から眺めると確かにその予測どおりになっているのだが、それはひとまず措くとして。徳川家康という人物は、個人的な感情としては大嫌いなのだが、本当に恐るべき人物だったと思う。築城だけでなくあらゆる点において。

 

不思議に思うのは、名古屋城にしろ駿府城にしろこれほどの防衛線が、戊辰戦争においてなぜ易々と突破されてしまったかということだ。

前回の拙記事 に、名古屋城二之丸にある「藩訓秘伝の碑」や「尾張勤皇青松葉事件之遺跡」碑の写真を貼った。「藩訓秘伝」というのは尾張初代藩主・徳川義直の「王命(天皇の命令)に従うべし」とした遺訓であり、「青松葉事件」とは幕末において尾張藩の佐幕派とされた家臣が一斉に粛清された事件である。

 

恥ずかしながら青松葉事件を知らなかった。あわててぐぐっていくつかのサイトを読んでにわか勉強をした。大事件じゃないか!

ウィキペはじめ多くのサイトは、尾張藩の付家老である成瀬家と竹腰家が、それぞれ勤王派と佐幕派に分かれて対立したと説明しているが、私はもう一枚ウラがあるんじゃないかと感じるなぁ。

尾張徳川家は、徳川宗家が7代で断絶した後継を、紀伊家と争った。尾張家は敗れて紀伊家出身の8代将軍吉宗が誕生したことは周知の通りだが、その後、紀伊系の歴代将軍によって尾張家の家系がズタズタに分断されたことは、地元以外ではどのくらい知られているだろうか? 宗春失脚後の9代目から、13代までの当主がことごとく紀伊系からの養子なのだ。紀伊系としては最大の仮想敵が尾張系だったから、なんとしても自家の影響下に置きたかったのであろう。

幕末の14代当主徳川慶勝は、分家の高須藩からの養子で、久々の非紀伊系である。

5代50年にわたって紀伊系が藩主の座にあったのだから、藩内でも紀伊系に迎合する勢力も当然あっただろう。藩の主権者たる慶勝らの意識としては、勤皇というのは名目で本音は「紀伊系の将軍家など宗家であるもんかばーかばーか」といったところであり、青葉松事件というのは藩内の親紀伊派の粛清であったのではないかという気がして仕方がない。

詳しい先行研究はいくらでもあるだろうし、もともと青松葉事件を知らなかった奴が偉そうに開陳するほどの意見ではなかろうけど。

ともあれ戊辰戦争において新政府軍は尾張城下を素通りできたのみならず、尾張家は諸大名や有力社寺に新政府側につくよう説得工作までおこなっていたという。

 

駿府城は3代家光の時代に家光実弟の城主・忠長が除封されて以来ずっと城代が置かれ、駿河は幕府直轄地となっていた。

城の造作がいかに優れていても、そこを死守しようとする将兵がいなければ、空城同様だったということだろう。

 

前回の拙記事より、名古屋城二之丸の「藩訓秘伝の碑」と…

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「尾張勤皇青松葉事件之遺跡」碑の写真を再掲。イメージの足しにならないかな?

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丘陵など周辺の地形を利用した城郭の防衛線がみごとに機能した例として、少し後の西南戦争における熊本城を想起する。

熊本城もまた、東には阿蘇の外輪山から伸びる舌状台地の先端が迫り、西には金峰山の山裾が広がり、熊本平野の最狭部を扼す位置にある。あくまで地図を見ると、だけど。

西南戦争の経緯は複雑だが、不正確さを恐れずにごく大雑把に言うと、少数の官軍守備兵の守る熊本城を落とせなかった薩軍は、城をうち捨てて北進しようとした。だが小倉より進軍した官軍主力と城の北方(有名な田原坂を含む)で会戦して敗北、官軍による城の回復後は薩軍は防衛線以南に封じ込められることになった。

 

小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』(中公新書) より口絵の「西南戦争 薩軍、政府軍進路図」を引用させていただきます。

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熊本城を最後まで落とすことができなかった薩軍の総帥・西郷隆盛は「わしは官軍に負けたのではなく、(加藤)清正公に負けたのだ」という言葉を遺したという。戊辰戦争において無人の野を行くがごとく名古屋、駿府など東海道の諸城を抜いた西郷にしてみれば、いかな名城とはいえ一城を落とせなかったことは、意外でもあり無念の極みでもあったことだろう。

熊本城の起源は古くまで遡れるそうだが、現在も残る形に整備したのは確かに加藤清正の治下においてであっただろう。その清正は、天下普請ということで江戸、駿府、名古屋各城の建築にも駆り出されている。よく知られているように、諸大名の力を削ごうという家康の政策である。

名古屋城築城においては、同じく駆り出された福島正則が負担に耐えかね「江戸城の場合は仕方がないが、庶子の城まで手伝わされるのはたまらない」と愚痴をこぼしたところ、清正は「そういうことは謀反を覚悟してから言え」とたしなめたというエピソードが、例えば司馬遼太郎『城塞(上) (新潮文庫)』(P80)などに採録されている。

だが清正がその苦役の中で、家康の築城の基本理念から細部のノウハウまで学びとり、自らの居城にそれらを適用したであろうと想像することも可能ではないか?

してみると間接的に清正をあやつり、薩軍の北上を阻み西郷に破滅をもたらすことによって明治維新に一矢を報いたのは、泉下の家康だったのではないかという、あんまり他人の言ってそうにない一行を言いたかったがための約3,600文字のエントリーでした。

 

熊本の災害ボラセンには3年前に一度行ったけど、熊本城の実物はまだ見たことがないな。どこか復興のキリがついたら、ぜひ一度見に行きたい。

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