🍉しいたげられたしいたけ

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鏡の国にいるときのアリスはケーキの切れない飛行少女

たしかはてなブログの「今週のお題」が「最近おもしろかった本」じゃなかったかと思っていたら、すでに入れ替わってしまっていた。

今週のお題 - はてなブログ」をチェックすると、ほんの数時間差だったらしい。

私がお題で書くことは滅多にないのだが(記憶によれば過去に1度のみ)、普段やらないことをやろうとすると、そんなもんだ。

 

何年か前に宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書) という本がベストセラーになった。私はずっと未読だったが、先月だったかツイッターのFFさんによる「ぜひ読んでください。1日で読めます」と熱心に推すツイートがタイムラインに流れてきた。

ちょうど直前に読んでいた本を読み終えたところだったし、ベストセラーになってから何年か経っているからAmazonマーケットプレイスで古書が安く手に入るだろうと思って、検索してポチした。

 

思った通り、著者がかつて勤務していた医療少年院に入所した少年たちがケーキを三等分できないことを述べた部分は、全体のごく一部だった。全182ページ中、P32からP35前半までのわずか3ページ半、しかもP34は著者が再現した図のみである。

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ケーキの切れない非行少年たち』P34より

本書は認知行動療法の一般向け紹介書だったのだ!

医療少年院には暴行傷害事件や性犯罪など深刻な事件を起こした未成年たちが入所しているが、著者が彼らと面接すると彼らの多くは

・簡単な足し算や引き算ができない
・漢字が読めない
・簡単な図形を写せない
・短い文章すら復唱できない

同書P23~24より

といった深刻な学習障害を抱えており、そのため学校で孤立していたりイジメに遭ったり、あるいは家庭内で虐待を受けていたりしていたことに気づかされたという。

 

彼らは障害を持っているがゆえに、またその障害が学校はじめ周囲に理解されていないがゆえに、自らの直面する問題を適切に言語化して周囲に訴えることができず、溜まったフラストレーションがいわば堰の低いところから決壊するように犯罪に向かわせられるのだという。

その多くは幼児に対する強制猥褻という形をとるのだそうだ。目をそむけたくなるような話ではあるが、彼らは強い性欲を持っているため、あるいは異常な性的志向を持っているため、そのような犯罪に走っているわけではないという。

 

同書には、知的・発達障害者に対するケアの先進地域である米国などで実施されている治療プログラムを参考に、著者が実践したケアの具体的事例が数多く紹介されている(ここでまたしても「ひょっとして日本は実は遅れているのではないか」という疑念が頭をよぎったが、深入りは避けておこう)。

その内容を、不正確さを恐れずに短く要約すると「言語化」ということに尽きるように思われる。

「飢えて死ぬ子の前で文学は可能か?」という有名な言葉があるように(大江健三郎がエッセイ集『厳粛な綱渡り』でサルトルの言葉として紹介したものである)、文人たちは自らの行為をことさらに「役に立たないもの」と卑下する傾向があるように思われるが、人間を人間たらしめるにあたって言葉の持つ働きは、想像以上に大きいもののようである。

 

いっぽう加害者側にどんな事情があったとしても、被害者となってしまった側としてはたまったものではない。「魂の殺人」とまで言われる心の傷は一生残りかねない。女子中学生が壮絶な性的いじめを受けて自死した事件があった。学校や教育委員会は「加害者にも未来がある」と奇妙な理屈を述べて加害者をかばうような態度をとったが、「ではその未来のある彼らに適切なケアを行っているのか?」くらいは問い詰めたいところである。ケアがなければ犯罪者のただの野放しだ。

 

本書がベストセラーになったことによって、いやこの印象的な書名が人口に膾炙するだけでも、世の中が少しでもよい方向に進む推進力となることを、すなわち加害者も被害者も少しでもその数を減らすのにつながることを、願わずにはいられない。

 

ときに、このツイートが「はてなブックマーク」のホッテントリになった。

ブックマークコメントに『ケーキの切れない非行少年たち』に言及するものが少なくないように見受けられた。インパクトのあるタイトルのつけ方って重要だよね。

 

もちろん私も最初にこの書名を想起したが、へそ曲がりなのであえて次のようなブコメを投入した。そうしたら思ったより多くの「はてなスター」を頂きました。ありがとうございます。

濱中裕明 on Twitter: "あー,そうか円のn分割ってこれでいいのか. https://t.co/XydU4an5zB"

ちなみにアリスの鏡の国では、ケーキは先に配って後から切り分けます(本当。角川文庫岡田忠軒旧訳P116

2022/10/14 08:30

b.hatena.ne.jp

 

当該箇所を引用してみる。改行位置、変更しています。ルビ省略しています。以下同じ。

「これでもう、二、三枚切ったのよ。でも切るたんびに、また合わさってしまうんだもの!」
 「鏡の国の菓子の扱いかたを知らんな」と一角獣がいいました、「先に配って、あとから切るのだ」
 ばからしいことをいっているとは思いました。けれど、アリスはすなおに立ち上がって、深皿を回して歩きました。すると、菓子は回るにつれて、三つにわれたのです。

岡田忠軒訳『鏡の国のアリス』(角川文庫) P116

 

1959(S34)年初版の古い訳なので訳語が時として古めかしいが(別の箇所で モップを「長柄ぞうきん」と訳しているところ もあった)「菓子」は原文では "cake" である。この版と講談社英語文庫版しか持っていないので(2冊も持ってりゃ普通は十分以上だが、なにせおびただしい版が出ている

"I've cut several slices already, but they always join on again!"
 "You don't know how to manage Looking-glass cakes," the Unicorn remarked. "Hand it round first and cut it afterwards."
 This sounded nonsense, but Alice very obediently got up, and carried the dish round, and the cake divided itself into three pieces as she did so. 

『鏡の国のアリス―Through the looking‐glass』(講談社英語文庫) P131

 

「ここ(鏡の国)では同じ場所にいるためには、力の限り走らねばならぬのじゃ」(角川文庫版 P30)が世の中の変化のすさまじい速さに喩えられるあたりを筆頭に、『鏡の国のアリス』のナンセンスは後世さまざまに牽強付会されている事例がたいへん多いが、なぜか『ケーキの切れない非行少年たち』と結びつけている例はちょっと検索した限りではヒットしなかったので、ブコメ投入すると同時に自ブログ記事にも仕立ててみた。ときどきやる他人があまり言ってなさそうなことを言いたかっただけのエントリーである。それ以上の深みはありません。

 

えっ、タイトルが間違ってる? アリスは鏡の国では飛べることを知らないな!

「急がないと、このおうちのほかのところが、どんなふうになっているのか見きらないうちに、鏡を抜けて帰らなければならなくなってしまうでしょう!先にお庭をひとめ見ましょう!」たちまち部屋の外へ飛び出し、へやと階段を駆け降りましたーーいいえ、少なくとも、正確にいって、駆けたというようなやりかたではなく、すばやくするすると階段を降りる新しい工夫だったと、アリスは独りごとをいったものです。指先を手すりにちょっとのせておくだけで、足は階段にふれもせず、静かにふわふわと降りて行ったのです。さらに広間をふわりと抜け、同じ調子でまっすぐにドアから外へ出てしまうところでしたが、ドアのわきの柱につかまって止まりました。

岡田忠軒訳『鏡の国のアリス』(角川文庫) P18~19