物語を構造解析したりパターン分類したりしたからといって、物語が書けるようにわけではないことは、過去に何度か書いた。これ とか、これ とか。「じゃ何をやったら物語が書けるようになるってんだよ?」という当然の問いに対しては、「知ってたら、とっくに自分で書いとるわい(`;ω;´)」と返すであろう。
ただし推理小説に関しては、パターン分類によって新しいトリックを考えているのではと推測できることが、時々ある。
古い例だが、こんなことを思い出した。
以下、横溝正史の『黒猫亭事件』と『悪魔の手毬唄』のネタバレが含まれています。
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『黒猫亭事件』は『本陣殺人事件 (角川文庫)』に収録されている中編である。ウィキペによると初出は1947(S22)年とのこと。どうでもいいけどウィキペのあらすじが完璧なネタバレだが、いいのか? 『黒猫亭』の冒頭には、登場人物が、推理小説でよく用いられるという三種類のトリックを論じるシーンがある。「密室殺人」「一人二役」「顔のない死体」である。
このうち、「密室殺人」と「顔のない死体」は事件の最初から読者に開示されている情報であるが、「一人二役」は解決以前に読者に知られてはならない情報だとする。まあそうだろう。
また、「顔のない死体」の真相は、ほとんどの場合、犯人と被害者の入れ替わりだと論じられる。そおかぁ? ルパン物の『金三角』は? 東野圭吾『容疑者Xの献身』は?
それはいいとして、『黒猫亭』はラストで犯人が被害者との一人二役を演じていたことが判明するのである。つまり『黒猫亭』のメイントリックは「顔のない死体」と「一人二役」の合わせ技であったのだ。
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『悪魔の手毬唄』はウィキペによると1971(S46)年発表。こちらは事件の前段として、二十年前に起きて迷宮入りした「顔のない死体」殺人事件が語られる。ラストで被害者が一人二役を演じていたことが明かされる。真犯人はメインの連続殺人事件の犯人でもある。
つまり…
『手毬唄』は「犯人と被害者が一人二役で、真犯人が別にいた」
『黒猫亭』は「犯人と被害者が一人二役で、“真被害者” が別にいた」
と整理できるのだ。“真被害者” なんて言葉はないけど今作った。作者の横溝正史は、トリックのパターン分類をしていて『黒猫亭』のトリックを考えつき、自分の考案をさらにひねって『手毬唄』のトリックを考え着いたんじゃないかな。
ただし『黒猫亭』のケースでは、ストーリー上重要度の低い “真被害者” をどこかから連れて来なければならなくなる。その分ストーリーの完成度が損なわれる印象を受ける。冒頭のトリック論議は、その不自然さを誤魔化す伏線だったのだ。
だから『手毬唄』のほうがストーリーの完成度は格段に高く感じられる。もともと推理小説というのは “真犯人” を探すものだから。『手毬唄』は何度も映画化やドラマ化され横溝正史の代表作の一つと言える。名作はこんなふうに生まれたのだろうかとあれこれ想像するのは、楽しくないですか?
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しかし改めて考えると「顔のない死体≒犯人と被害者の入れ替わり」説に完全に合致する作品なんて、あったっけ? 横溝が読んだであろう推理小説の古典の大部分は多分未読なので、断言するのは乱暴だけど、「この説は虚構じゃないか?」という気がする。辛うじて思い出したのは、横溝自身の『犬神家の一族』だったぞ。死体じゃないけど。あとで死体になるけど。と言ったらネタバレじゃないか! 『犬神家』は『手毬唄』以上に有名だからいいのだ。よくないか。
そうそう、思い出した。かつて坂口安吾『復員殺人事件』というのが、角川文庫から出ていた(現在版元品切)。やはり死体じゃないけど戦争で顔面が損なわれた正体不明の人物が登場する作品だったが、こちらの正体は一人二役も加害者と被害者の入れ替わりも関係ない、どこの誰とも知れぬ馬の骨だった。なんかネタバレが止まらないですねすいません。
これ、ひどいんだよ。1970~80年代の角川書店は、自らが仕掛けた横溝正史、森村誠一らのミステリのメディアミックスが当たりに当たった勢いに乗って、すごい点数の文庫本を発行していたのだ。坂口安吾は「無頼派」と呼ばれた作家、評論家だが、本業とは別に書いた『不連続殺人事件』が、本業のミステリ作家からも絶賛を浴びた。坂口の書いた長編推理小説は『不連続』と『復員』の二作のみで、後者は絶筆だったのだが、本業のミステリ作家である高木彬光が、坂口の遺した創作メモに基づいて、つか大改編を施して完成させたものが、角川文庫に入ったのだ。
何がひどいかというと、角川文庫版の『不連続殺人事件』の解説も高木彬光だったのだが、そちらには「『復員』はハシにも棒にもかからぬ駄作だった」という意味のことが書いてあった。だから自分が書いた完結編では、創作メモと違う人物を犯人としたのを始め、内容をいじったというのだ。しかるに『復員殺人事件』の文庫カバーの作品紹介には、「幻の傑作推理!」のような惹句がしれっと書いてあったのだ。カドカワが信用できないのは、40年前からだったのだぞ! と言うくせにAmazonのリンク貼りまくっとるな。
なんかパターン分類を論じたかったのかネタバレを論じたかったのか、だんだん自分でもわからなくなった。かつては今からは考えられないほどネタバレに寛容な時代だったのだ。『復員殺人事件』は版元品切れで、これから手に取る人も少ないだろうけど、坂口自身の『不連続殺人事件』やヴァン・ダイン『甲虫殺人事件』のネタバレが含まれていたので要注意。
しかしミステリ作家が古典ミステリのネタバレをやるのは、リスペクトという感情の発露かも知れない。比較的新しい作品では、法月綸太郎『雪密室』中に、次のような文章があった。こういうのは許されると思う。つかどの世界でも時代は変わっていくのだな。
(作者からの註――次頁で、カーター・ディクスンの『白い僧院の殺人』のトリックを明かします。未読の方は、とばしてお読み下さい)
『雪密室 (講談社文庫)』P112
リスペクト以外に、「これネタバレじゃねーの?」と指摘する楽しみからネタバレしてしまうケースもあると思う。つまり「ネタバレと言うのがネタバレ」というやつだ。10月5日のエントリー に書いた『奇岩城』や『水晶の栓』の偕成社版タイトル『水晶の眼』(品切)のタイトルネタバレは、そういうことが許される時代だったとしか言いようがない。新しめのところで、森博嗣の代表作『すべてがFになる』のメイントリックにも、今回のエントリーで論じた要素が含まれている。シリーズ物は順番に読まないと以前の作品のネタバレになりかねないことはたまにあるにせよ、今から『すべてがFになる』を手に取ろうとする読者は、著者の他の作品のタイトルからだけでも「被害者生きてるんじゃね?」と最初からわかってしまわないか、とか。微妙だよね。微妙だからこそ「ネタバレと言うのがネタバレ」というのが当てはまる。
ネタバレやったの『黒猫亭事件』と『悪魔の手毬唄』だけどころじゃないな。
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