しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

丸谷才一『忠臣藏とは何か』(講談社)

忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)

忠臣藏とは何か (講談社文芸文庫)

思うところあって読んでみた。長編評論。今は講談社文芸文庫に入っているが、私は単行本版で読んだ。
以前に読んだ永井均<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス』中の「なぜ悪いことをしてはいけないのか」(むしろ「我々が悪いことをしてはいけないと考える内的な動機は何か」と表現するべきかな)という問題設定に対して、私はただちに「なんで永井氏はアレとアレに触れないんだろう?」と感じた。一つが「自己愛」で、もう一つが我々が生きていく上で取り込む膨大な量の「物語」であった。
欧米であれば自明だよね。新約・旧約の両聖書が存在するから。日本の場合はどうなんだろうと、最初の手がかりになりそうなものとして、誰でもただちに思いつきそうなのは『忠臣蔵』というタイトルではなかろうか。実は本書で開巻一番に言及される芥川龍之介『或日の大石内藏助』青空文庫で再読*1してみたのだが、これだけでも仮説の補強には十分だったかも知れない。丸谷先生、動機の不純な読み方をしてごめんなさい。
丸谷氏は、『忠臣蔵』には『曾我物語』という古形があることを指摘する。曾我十郎・五郎の兄弟が、親の仇であり源頼朝の寵臣である工藤祐経を討つ物語である。そして赤穂義士たちが、現実の場面場面で『曾我物語』のストーリーに己が身をなぞらえて行動していたと仮定することによって、丸谷氏が自ら設定した「謎」を次々と鮮やかに解き明かしていく。例えば内蔵助の祇園での放蕩とか、なぜ内蔵助が討ち入りの直前に寺坂吉右衛門を帰したかとか(単行本版p62〜64)。
そして『忠臣蔵』の物語が一旦成立すると、今度は『忠臣蔵』自体が人々にとっての行動のモデルになる。芥川『或日の大石内藏助』には、討ち入りになぞらえたようなつまらぬ喧嘩が江戸の町に頻発するのを聞いて、大いに興ざめする内蔵助の姿が描かれる。

*1:つか未読だったかも知れない。筋をぜんぜん覚えていない。多くの人が最初に芥川を読むのは小学生か中学生のときだと思うが、その頃に読んでも絶対面白いとは感じなかっただろう。