しいたげられたしいたけ

空気を読まない 他人に空気を読むことを求めない

漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その2)

筒井康隆の「虚構内虚構」「メタ・フィクション」ともいうべき一連の実験小説は、その萌芽が短編集『富豪刑事』中などに見られる旨を、前回のエントリーに書いた。『富豪刑事』中のそれは推理小説のパロディ的なもので、謎解きの直前に登場人物が読者に対して唐突に「これから謎解きを行います」と宣言したり、ラストの大団円で本編中に登場しなかった人物が突然出てきて一緒に騒いだり、等々、他愛のないものだった。早い話がギャグだった。

しかし筒井は、自分自身の書いたものに触発されて、数々の実験小説を書こうと思い立ったのではないかと想像する。ただしその実験の成果が、筒井にとって、また文学界において、どれだけの価値のあるものだったかは私にはわからない。「その1」に書いた通り、少なくとも私にはこれらの小説があまり面白いとは感じられなかった。筒井は1993年に断筆宣言というのを行っている。断筆宣言は「表現の自由への抑圧に対する抗議」という名目だったが、根拠はないがなんとなく私は、実験小説に倦んだことも表に出ない理由の一つではなかったかという気がした。断筆撤回後の作品からは、かつての実験小説的な傾向は影を潜めているよね?

 

それで連想したのが、夏目漱石だった。漱石のいくつかの小説は、結末を決めずに書き始め、書きながら筋を考えたんじゃないかと想像している。『三四郎』などはまさしくそれで、漱石自身が確か「田舎から出てきた三四郎という青年を、都会の中に置いてみる」というようなことを書いていたはずだ(出典はいろいろ探しているが見つけられないでいる)。小説の後半で主人公を食う活躍を見せる主人公の友人は、佐々木与次郎という、あまりにもおざなりな名前を与えられている。佐々木小次郎の何代目の子孫じゃい?

例によって脱線するが、漱石作品には、主人公より主人公の友人の方が活躍する作品が目立つよね。『坊ちゃん』のクライマックスでは「坊ちゃん」ではなくむしろ「山嵐」が主役だし、『こころ』は言わずもがな。

 

そうした創作の過程において、ちょうど筒井がメタ・フィクションを発見したように、漱石はとんでもないものを発見したのではないかと思うようになった。そしてそれが文豪・漱石の名を不朽にしたのではないかと思っている。日本における「個人の発見者」という名誉である。

しかし、それを詳述するには私の勉強が全然足りていない。拙記事には、私の問題意識のクロッキーを示すことしかできない。「個人」というものが「発見」されるべきものだという発想は、確かドイツ文学者の阿部謹也によるものだったはずだ。阿部によると、「個人」は中世ヨーロッパにおいて「発見」されたという。例によって出典失念。探しているところです。すみません。

 

2015年の『三四郎』『それから』再連載中の朝日新聞に、ごく短い文章を載せてもらったことがある。「小川三四郎と、長井代助(『それから』の主人公)を、同じ人物と考えるか?」という、現代国語の教師が言いそうな文言である。気まぐれで感想をメールで送ったら、担当の記者が乗ってくれたのだ。普通に考えたら、全然別人のように感じられるだろう。しかしメールには書かなかったけど、「近代的個人」という観点では瓜二つじゃなかろうか、というのが私なりの回答のつもりだ。三四郎には帝大生という属性がある。代助は大富豪の子弟であることがアイデンティティだ。しかし、ちょうど加速器による素粒子衝突実験によって裸の素粒子が検出されるように、恋愛という実験によってむき出しの「個人」が現れるのである。すみません、告白しておきますが、この考えも誰だったか他人からの借りものです。

 

なんでこうした問題意識を重要に感じるかというと、「個人」が「発見」されるものであるなら、「個人」はまた「見失われる」こともある存在ではないかと問えそうだからだ。近年の日本社会において、企業など組織の力はいや増しに強まっている。それはとりもなおさず、個人の地位が相対的に低下していることに他ならないのではないか? 国や企業に埋没して、個人というものが再び見失われてしまうことはないのか? … これも十年単位の宿題とするテーマに十分ではないかと思いませんか?

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以下、余談だけど、なんとなく書いておきたい。1979年の「七瀬三部作」の最初の映像化において、主人公を演じた女優は多岐川裕美だった。文句のつけようのない美人女優さんだったとは思うが、やはりどこか多岐川裕美という本人の個性が「火田七瀬」というフィクション上の存在と衝突するように感じたことを覚えている。

1985年の『それから』の映画化に際して、森田芳光監督がヒロインの平岡三千代役に起用した女優は藤谷美和子だった。あの時代きっての美人女優さんだったと思う。しかし「プッツン女優」などというあまりありがたくない異名も授けられている人であり、「えっ、そうなの?」感も否めないものがあった。

余談に余談を重ねると、「プッツン女優」で思い出したのだが、1986年にマンガ『めぞん一刻』が映画化されたときに、ヒロイン音無響子に当てられたのは、やはりその異名を奉られていた石原真理子(現・真理)だったなぁ。あまり関係なかったですねすみません。

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とかなんとか書いている間に、阿部謹也が「個人の発見」を論じた文章を見つけた。「個人の発見」というのは記憶違いで、「個人の誕生」でした。すみません。『物語 ドイツの歴史―ドイツ的とはなにか (中公新書)』「第三章 個人の誕生」P45~63です。すでに書いてしまった文章も本来直すべきですが、「発見される」とは言うけど「誕生される」とは言わないなど、直しにくかったので、そのままにすることをお許しください。

阿部には『「世間」とは何か (講談社現代新書)』 という著作もあり、その中で漱石も論じられている(「第五章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか」)。「個人」と対立するのが「世間」というのは、なんつーか、正解すぎない?

阿部は阿部で、私なりに紹介し論じるための独立したエントリーを起こすべきか … つか「その3」三島編を書けるのか、そっちを先に心配しろよ自分。タイトルに書いた宗教の話もまだしてないし …

物語 ドイツの歴史―ドイツ的とはなにか (中公新書)

物語 ドイツの歴史―ドイツ的とはなにか (中公新書)

 
「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)