しいたげられたしいたけ

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カント『純粋理性批判』を読む

三日目である。
ようやくこれで三日坊主の資格ができた。だがまだ一ページ目も読み切っていない。しかしそんなことは驚くに値しない。なにせ30年かけて読めばいいのだ。
ちなみに『純粋理性批判』を読破したら、次は『存在と時間』を読もうと思っている。なにせこの本には、「自分自身が存在するという神秘」の秘密が書かれているというではないか。そればかりか「死」の秘密までもが書かれていると言われているではないか。これは読まずに死ねようか!だがこの本も『純粋理性批判』に勝るとも劣らぬ難解さで知られた本である。同じく30年ぐらいかけなければならぬであろう。
さらにそれも首尾よく読破できたら、いよいよ『資本論』に取りかかろう。これは分量が多いから、倍の60年ぐらいかける計画でいる。単純に分量を比較すると『純粋理性批判』や『存在と時間』の3倍はあるから、90年かけなければ読めない計算になるが、『資本論』に取りかかる頃には私の読書スピードも多少は向上しているはずであるから、それをあてこんで60年ということにしておく。
そうすると、なかなか死ねない計算になるが、どうやら読書には寿命を延ばす効用もあるようである。

かかる原則をもって理性は(その自然的本性上、必然的にそうせざるを得ないので)条件からそのまた条件へと系列を遡ってますます高く昇っていく。しかし問題はいつになっても尽きることを知らないので、理性はこのような仕方では自分の本務がいつまでも不完全な域にとどまっていなければならないということに気づくのである。

(篠田英雄訳『純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)』p13)
難解さの種類にもいろいろあるが、前回は「言い回しの難解さ」について書いた。難解な言葉はぶっちゃけうんと簡単な言葉に置換してしまえば、なんとなくわかったような気になる。この方法を今回も使用するのであるが、今回はもう一つ「飛躍による難解さ」というものを相手にしなければならないようだ。
まず「かかる原則」ってのは何なのだ??直前の部分を読み返すしかない。日常の生活を送るにあたって絶えず使用されている「原則」である。日常の生活を支障なく送れるということによってその「正当性」が証明されているとかいう「原則」である。
で、それが「条件からそのまた条件へと系列を遡って」とどうつながるのだ??そもそもここで初出の「条件」とはなんの条件なのだ??
またカッコに入っている「その(理性の?)自然的本性」ってのは何なんだ??
いずれもそれ以上の説明はない。著者のカントは読者がこの部分をさらりと理解してくれることを期待しているのであろうか?
ならば例によって、易しい言葉による置き換えを試みるまでだ。「条件とは何か」などと考えすぎちゃダメ。つまりここは「日常の生活を送っていれば、チエも付いてくる」すなわちそれを「理性は」「高く昇っていく」と表現しているのだと考えてみよう。
それでうまくつながるじゃないか!
それでは次の文。ここはやさしい。困難やトラブルは手を変え品を変え次々と我々の生活に襲いかかってくるのである。そのたび我々は途方にくれる。「オレってバカだ〜!」と年がら年中頭をかかえる。この「オレってバカだ〜!」ってのを、カントは「理性は(略)本務=自分の本来の仕事がいつまでも不完全だと気づく」と書いているのである。
よし、これでわかったことにしよう。いいのか?けだし我々の思考はいつでも飛躍に満ちている。だけどそれが易しい言い回し、あるいは手垢がついた言い回しや紋切り型で表現されると、飛躍を飛躍と気づかないのであろう。
厳密な学問上の議論では、それがまずいこともあろう(実は「厳密な学問上の議論」というものがどんなものであるかを味わってみたいということも、この本に手を出した動機のひとつであるのだが)。だかここはまだ序文である。カントおじさんのおしゃべりに、呑気に付き合ってやっていると考えても、後への影響は少ないはずだ。
「理性ちゅうたかて難しいもんやおまへん。わたしらは、毎日暮らしてるやろ?その間、わたしらはずっと理性のお世話になってますのや。それでにっちもさっちもどもならんことがないっちゅうことは、とりもなおさず理性がちゃんと仕事してくれてる、ちゅうことのしるしに他ならんのですわ。また日々そうやって暮らしていくうちに、理性もだんだんと育っていくんやねえ。しかし、わたしらが生きてる限り、困りごとはいつまでたっても無くなりません…」