しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

速水健朗『ケータイ小説的。―“再ヤンキー化”時代の少女たち』(原書房)

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

著者は「あとがき」で「ケータイ小説」を「被差別文化」の一つと位置づけている。
ケータイ小説は、最盛期にはミリオン、一段落した現在でも10万部単位と、例えばオタク系文化と比べてもはるかに大きい市場を持つという。しかし多くのオタク論が幅を利かせている中、ケータイ小説はまともに批評の対象から疎外されつづけていることに対し、著者は問題提起を行っている(本当は浜崎あゆみやヤンキー系少女マンガを含めて外延を膨らませ「ヤンキー文化」というのを定義しているのだけど)。
わからなくもないなぁ。自分の場合を振り返ると、少女マンガもかつてジュニア小説と呼ばれていたラノベも、読まずに蔑視していた期間があったもんなぁ。読み始めてハマったけど。歳がばれるけど『ガラスの仮面』『パタリロ』『スケバン刑事』『ブルーソネット』が連載されていた時期の『花とゆめ』は、自分でレジに持っていくことに全く抵抗感を抱かず購読を続けていたし(でも買うでしょ、このラインナップだったら?)、「コバルト文庫」で氷室冴子新井素子に出会ったのは衝撃以外のなにものでもなかった。
「女子どものやること」を知りもしないくせに頭からバカにしてしまう傾向は、男という生き物の度し難い宿痾かも知れない。およそ一人の人間が真剣に取り組んでいることで、他人が知りもしないのに軽蔑の対象にできることは何一つない。知った上で自分の興味の対象外と判断をくだすことはありうるが。
本書は『恋空〜切ナイ恋物語〜』『赤い糸』『teddy bear ケータイからあふれたLOVE STORY 2』など書籍化されたケータイ小説を俎上に乗せてさまざまな角度から切り込んでいく。特に圧巻は「DV」「デートDV」という視点から論じた第4章なのだが、元の小説を未読なので著者の分析が妥当なのかどうかは直ちには判断できない。ただ、速水考現学は相変わらずの絶好調で、著者の「現代」というか「同時代」への探求によせる情熱は、いつもながら並々ならぬものを感じる。
このエネルギーを注ぐ研究対象がもし「近世フランス文学」とか「古代サンスクリット哲学」とかだったら、どっかの大学がたちまち専任ポストを提供するだろうにと、ついさもしいことを想像してしまうが、考えてみれば「近世フランス文学」とか「古代サンスクリット哲学」とかの研究者も、好きだからこそそれらのジャンルに情熱をよせているのであろう。