難しい本にチャレンジするときに、よくある現象なんだけど、本を閉じて小口*1を眺めると、前の方ばかりが手垢で汚れていて後の方が真っ白であることに気づく。んでもって昔はよくそれを反省して、「前の方ばかりに注力するのではなく、全体に均等に注力しなければならないなぁ」と思ったものだが、今にして思えばそれは間違いであった。全体に均等に注力しようとすることは、エネルギーの分散にほかならない。とりあえず正面突破を試みるのなら、エネルギーは分散するのではなく集中しなければならない。つまり、逆が正解なのだ。前の方にもっともっと注力するべきだったのだ。注力の度合いが、まだ不十分であったのだ。
以上の議論の正当性は、私の書架に小口の前も後ろも真っ白な夥しい本が並んでいることによって証明される。
という訳で(どんな訳だ?)一昨日の次の部分。
そこで理性は、一切の可能的な経験的使用を越えるにも拘らず常識とすら一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるを得なくなる。ところがそのために理性は、昏迷と矛盾に陥いる。
(篠田英雄訳『純粋理性批判 上』(岩波文庫)p13)
???
難解な文章にチャレンジするにあたって、私は二つの方針を用いている。ひとつは「なにがわからないかわからない」状態から、どの部分がわからないからわからないのか、わからない部分の絞込みを行うことである。もうひとつは、わからない部分がわからない理由について、まがりなりにも言葉で説明を与えてみることである。
これまで、わからない理由について「語句の難解さ」と「飛躍による難解さ」という説明を与えてみた。その段で行くと、この部分のわからなさは「語句の指示対象が不明なことによる難解さ」とでも表現できようか。
引用部の前半の文章を、枝葉をばっさりとそぎ落として単純化してみる。
「そこで理性は、とある原則に逃避せざるを得なくなる」
でこの「とある原則」というのが何かというと、
「一切の可能的な経験的使用を越えるにも拘らず」「常識とすら一致するほど確実に見えるような」という二つの形容詞節で形容される「原則」なのである。
なんなんだそれは???
そしてこの、指示対象が何であるのか明確でない「原則」という語を受けて「そのために(このとある原則のために)理性は、昏迷と矛盾に陥る」という後半の文章に続いている。
ドミノ式に「昏迷」と「矛盾」というのが「どんな昏迷なのか」「どんな矛盾」なのかがわからなくなる。
かくして我々は、この文章がわからない、この文章の何がわからないのかもわからないという昏迷と矛盾に陥るわけである。
だから結局、この「とある原則」というのをなんとか攻略してしまえば、先に進めそうなのだということがわかる。
「一切の可能的な経験的使用を越えるにも拘らず」「常識とすら一致するほど確実に見えるような」「原則」ってどんなものがあるのだろう?
ぱっと思いついたのは「宗教的信仰」である。あるいはある意味それに近いものとして「科学によって世界を解明できるというような信念」もそれに当てはまるかもしれない。
学校の授業だったら、先生が生徒に「はい、他に思いついた人、手を挙げて」と答えさせて、生徒の答えを黒板に書き並べていくようなシーンやね。
とりあえず思いついた二つが、適切でないかもしれない。だがそれらよって前に進むことはできそうだ。こうして前に進んでいって、いずれかの時点で間違いに気づいたら、また戻ってきて修正すればよろしい。
カント先生に教壇に立っていただこう。
「そんなわけで、理性は、自分が自分の仕事を十分にやっとらんことに気づいて、頭を抱えるんやね。そして理性はどうするかちゅうと、逃げ出すんやわ。どこへやろね?それは、よう考えたら日常生活ではホンマに使うことは絶対にありえないんやけど、それが常識やと言われたら思わず納得してしまうような、そんな逃避先を見つけだすんやね。どんなとこやと思う?はい鈴木君、宗教?ええ答えやね。え?正解ですかって?いや、それはまだわからんで。黒板に書くわ。しゅう、きょう、と。はい他に。佐藤君。科学に対する信念、ほう、君も面白いこと言うね。でも、もうちょっと説明してんか?ほかの子わかってないかも知れんでな。つまり科学によって世界が解明できると言う信念?そうやね。ホンマに科学で世界が解明できるかどうかなんて、誰にもわからんもんね。え?正解かって?知らん知らん。でもこれも黒板に書いとくで。科学に対する信念、と…」
スポンサーリンク
*1:「製本で、本の背を除いた三方の断ち口。特に本を開く側の断ち口の部分」(web大辞林)