いくら幸先のよい滑り出しとはいえ、手取り10万では当時でも生活は苦しい。また仕事が一日一コマというのも情けない。社会人をターゲットとした教室なので夕方のスタートだった。だから昼間がまるまる空いていた。空いたスケジュールをなんとか埋める方法はないかと、じたばたした。
最初に頼ったのは、やはりここの書店だった。馴染み客の伝手経由で、週一コマペースの昼間の出張教室を開催した。まあこちらも書店の取り分の方が多かったわけだが。さらに土日のコマとかも増設した。通常のカリキュラムだったり、短期集中の特設コースだったり。そうしたコマは私が担当することもあったが、週に休みなしはさすがにキツいので、パソコン講師の同業者にヘルプを頼んだこともある。後の話になるが、同業者さんにお手伝いをお願いしたことは、ここの書店と縁が切れて別の場所にパソコン教室を開設してからも、しばしばあった。
このへんから書店と私の同床異夢が見えてきた。当時の私の夢は、マネジメントに移行することだった。もしここの書店に開設したパソコン教室の経営が順調に行くのなら、うちもやりたいという書店はいくつでもあるだろうと想像した。当時でも出版不況や書店経営の苦境は誰の目にも明らかだったのだ。一方、仕事を欲しがっているパソコン講師がいっぱいいることも知っていた。両者のマッチングを行うビジネスモデルは成立しないかと考えたのだ。どんな業界でも、一番いい目を見ることができるのは胴元だ。
いっぽう書店側は、パソコン・IT機器販売への事業拡張を考えていたようだ。具体的には、パーツショップから部品を仕入れて独自ブランドのパソコンを販売することを持ちかけられたことがある。私はそれがどう考えてもいいアイデアだとは思えなかったので、やんわりと拒絶した。パーツショップだって利益を上乗せして部品を売ってるわけだから、そこからさらに利益を出すのは大変じゃないの? ってことだ。
まあこのへんの思惑の違いが表面化するはるか以前の段階で、別の事情によりここのパソコン教室は閉鎖せざるを得なかった。そのことは次回のエントリーに書きます。
ただしこの出張教室とか仕事を拡げようとじたばたする課程において、ひょんなことから現在の主な収入源とのご縁がつながった。こちらの詳細はプライバシー自衛のため当面エントリーにする予定はありません。退職したらネタにしようと思っています。なにとぞご理解とご容赦のほどを。
絶頂期には、ここの書店のパソコン教室と、現在の仕事の、ダブルインカム状態となり、手取り収入は月60万円を超えた。この額はサラリーマン時代のボーナスよりも多かった。
その金を貯めて、新たに自前のノートパソコンを10台用意した。低価格化が進んだ今と違って、一台10万円以上した時代である。キャッシュで支払ったが、銀行でおろした100万円の束を受け取った時にはさすがにちょっと手が震えた。
その時のパソコンが、前回のエントリーの写真に写っているNEC製LaVieです。XP機で、メインメモリは256MBしか積んでいなかったことを、なぜか憶えている。それでも当時としては十分快適だった。パソコンのハードのとめどない進化と、ソフトのやはりとめどない肥大化は、当時でも認識されていた。
絶頂期は短かった。その終焉は突然やってきた。
この項、パソコン教室を経営していました(その3)へ続きます。
(その1)はこちら ⇒ https://watto.hatenablog.com/entry/20141011/p1
※ はてなブログには下記新規エントリーを公開しました。
『冗弾の射手(その3)』
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