「もう一人の自分自身の正体は誰か?(その5:たぶん完結) - しいたげられたしいたけ2」で完結させずに中断してしまった話題に関して、実は例によって「はてなダイアリー」の方にその続きみたいなことを書いていたので、再掲になりますがこちらにもまとめておきたいと思いつきました。最初からまとめておけばよかったんですが、だいたいこういうことを思いつくのは後になってからです。
「その5:たぶん完結」に、次のような無限ループ(無限後退)問題をクイズの形で提示しました。
【問題1】
俗に「気が狂っている者は自分が気が狂っているとは思わない」と言うが、自分は気が狂っているんじゃないだろうかと心配している相手にそう言って安心させようとすることは有効だろうか? なぜなら
「私は気が狂っていると思う。従って私は気が狂っていない」
↓↑
「私は気が狂っていないと思う。従って私は気が狂っている」
という無限ループが成立しないか。
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【問題2】
謙遜とか卑下というのは、実は思い上がった態度ではないのか? なぜなら謙遜している自分、卑下している自分が偉いと思っているからやっているのではないのか? してみると
「私は自分が偉いと思っている。だから私は偉くない」
↓↑
「私は自分が偉いと思っていない。だから私は偉い」
という無限ループは成立しないか。
「問題1」に関しては、すでに「その5:たぶん完結」の中で述べた通り、論理に抜けがあるのでパラドックスは成立しません。命題Aが真であったとしても、命題Aの否定は必ずしも真であるとは限らないからです。つまりもし「気が狂っている者は自分が気が狂っているとは思わない」という俚言が真だとしても、その否定「自分は気が狂っていると思っている人間は気が狂っていない」は必ずしも真であるとは限らないというだけのことです。
論理学を専攻した人によると「~と考える」という命題は、論理学で扱うパラドックスには該当しないのだそうです。これは、人間は互いに矛盾する二つ以上の命題をともに真と信じることができるからだそうです。平たく言えば「ラミーよりバッカスの方が美味しい」「バッカスよりカルヴァドスの方が美味しい」「でもカルヴァドスよりラミーの方が美味しい」と思ったって何の問題も生じない、ということのようです。
これがもし「ラミーよりバッカスの方が売上高が大きい」「バッカスよりカルヴァドスの方が売上高が大きい」「でもカルヴァドスよりラミーの方が売上高が大きい」となれば論理矛盾でありどこかでデータが間違っているということになるのですが(実際のところどうなのかは、ロッテに問い合わせていないので知りません)。
もっとざっくり言ってしまえば、論理的には飛躍がありますが「自分で自分が正常であることは証明できない」「自分で自分が偉いとは証明できない」と結論づけるのが、精神衛生上は良さそうです。もし自分の正常性や自分の偉さを知りたいのなら、自分の具体的な行為に客観的な物差しをあてはめることによって判定するしかないというのが、私なりの結論です。
ただし上記2問題の無限ループを生んだ「Aである」と「Aだと考える」が区別できないという共通の構造は、注意していないと我々が論理的推論するときに、躓きの石となりかねないのではないかというエントリーを書いたことがあります (自己言及のパラドックスについて - しいたげられたしいたけ)。
その際に、例にならないかと取り上げたのが「死刑囚のパラドックス」です。
ある死刑囚が、月曜日の朝、看守から次のように告げられた
「お前の死刑は次の日曜日までに執行される。死刑が行われる日は、その日の朝に告げられるまでわからない」
これを聞いた死刑囚は、自分の死刑を執行することは不可能だと思って喜んだ。
なぜなら次の日曜日に死刑を執行することはできない。土曜日までに死刑が行われなければ、日曜日に死刑が行われることがわかってしまうからだ。
すると土曜日に死刑を執行することもできない。金曜日までに死刑が行われなければ、土曜日に死刑が行われることがわかってしまうからだ。
金曜日に死刑を執行することもできない。木曜日までに死刑が行われなければ、金曜日に死刑が行われることがわかってしまうからだ。
以下同様にして、月曜日から日曜日までのどの日にも死刑を執行することはできない。
そう考えて死刑囚が安心していると、水曜日か木曜日の朝になって看守がやって来て、こう言った「お前の死刑は今日、執行される」
死刑囚「そんなバカな! 俺の死刑は執行できないはずだ! 理由はかくかくしかじか…」
看守「それではお前は、死刑が今日執行されるとわかっていたのか?」
死刑囚「いいや…」
かくして死刑囚は哀れ刑場の露と消えたのであった…
この問題はウィキペディアには「抜き打ちテストのパラドックス」というタイトルで載っています。様々な論理学者や哲学者が、この問題に対する解釈を行っています。私は次にように考えて、自分自身を納得させていました。問題を単純化するため、死刑執行が告知されたのが最終日である日曜日の朝だと考えてみます。
看守「お前の死刑は今日、執行される」
死刑囚「そんなバカな! 昨日の土曜日に死刑が告げられなかった時点で、死刑が執行されるのは今日しかないとわかっていたんだぞ!」
看守「ということは、お前は死刑が今日執行されるとは思っていなかったんだな?」
死刑囚「そうだ」
看守「ならばお前は、死刑が今日執行されるとわからなかったということではないか!」
死刑囚「…」
「『死刑が執行される』と思う」ならば「死刑が執行されない」と「『死刑が執行されない』と思う」ならば「死刑が執行される」という命題のペアが成立しており、正常な推論が行えない状態に陥っている、という解釈です。
ところが、何かのはずみで次のような解釈も思いつき、思いついてみるとこちらの方が説得力が高いような気がしました (「死刑囚のパラドックス」別解 - しいたげられたしいたけ)。
看守は死刑囚に二枚のトランプを示した。
看守「ここに二枚のトランプがある。一枚はジョーカーだが一枚はジョーカーではない。この二枚を、どちらがジョーカーかわからないように重ねることができると思うか?」
死刑囚「できるに決まっているだろう!」
看守「だがさっきのお前の理屈を使うと、できないことになる。
その理由はこうだ。
重ねた二枚のカードのうち下のほうがジョーカーだということは、ありえない。なぜなら上のカードを開いてジョーカーでなかったら、下のカードはジョーカーだとわかってしまう。すると『どちらがジョーカーかわからない』という命題と矛盾するからだ。
そうすると上のカードがジョーカーだということも、ありえない。なぜなら先の推論により下のカードがジョーカーではないことがわかっているので、上のカードがジョーカーだということになる。するとやはり『どちらがジョーカーかわからない』という命題と矛盾する」
死刑囚「そんなバカな! 二枚のうち一枚は間違いなくジョーカーなのだから、よくシャッフルすればいいだけじゃないか!」
看守「そうだ。それと全く同じ理屈で、お前の死刑が執行される日は、土曜日か日曜日のどちらかにランダムに決定されるのだ」
死刑囚「…」
かくして、やはり死刑囚は哀れ刑場の露と消えるのである…
これは、「二枚のトランプのどちらがジョーカーかわからない」という命題に「トランプを一枚めくればどちらがジョーカーかわかってしまう」という意味が最初から含意されていると考えることによって、合理的に解釈できるように思われます。あるいは「二枚のトランプのうちのどちらがジョーカーかわからない」という命題は、「トランプを一枚めくればどちらがジョーカーかわかってしまう」という命題と矛盾しない、と言い換えた方がいいかもしれません。あまりにも当然であって、だから何なんだとなりかねないのですが。
同様に「土曜日か日曜日かどちらが死刑執行日かわからない」という命題は「土曜日になればどちらが死刑執行日かわかってしまう」という意味が最初から含意されている、あるいは「土曜日の朝になればどちらが死刑執行日かわかってしまう」という命題と矛盾しない、として解釈することが可能なようです。
とすると「Aである」と「Aだと考える」が区別できないという構造を持ち出す必要はなくなります。
このような一つの問題に対して二つ以上の解釈が成立しそうな場合に、その両者を自分の中でどのように位置づけるかについては、いまだ考えがよくまとまっていません。
無料素材倶楽部 様より
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