8月12日付拙記事『「グレリングのパラドックス」は疑似パラドックスにすぎないのではないかという試論』中で、背理法が絶対的に信頼できるのか? (排中律は絶対的に成立するのか) という議論において、答は必ず存在するが検証に無限の手間がかかる一例として「円周率の10進表記において9が連続して現れる回数は最大何回か?」という試問が提示されたことがある旨を書いた。ただし出典を失念したので思い出したら追記するとも書いた。
その後、提唱者はオランダの数学者L.E.J.ブロウウェルで、私は吉永良正『ゲーデル・不完全性定理: 理性の限界の発見』(講談社ブルーバックス) P162~で知った旨を追記した。残念ながら現在は版元品切れである。
同書をパラパラと読み返していたら、最初の方に「カントールの定理」というのが載っていた。
ええっ、これ、推論の過程がグレリングのパラドックスとそっくりじゃね?
カントールの定理というのは「任意の集合Aのベキ集合2^Aの濃度は、Aの濃度よりも真に大きい」というもので、確認したら8月12日付拙記事のタネ本に使った中村秀吉『パラドックス』(中公新書) p48~にも野崎昭弘『逆説論理学』(中公新書) p166~にも載っていた (『パラドックス』での表記は「カントルの定理」、『逆説論理学』は証明なし
「ベキ集合(冪集合)」とは、ある集合の部分集合を全部集めた集合のことである。
だが不思議なことに、両書にはグレリングのパラドックスとの相似には一言も言及がなかった。なんでだ??
「カントールの定理」は、ぐぐるとウィキペにも項目があり(wikipedia:カントールの定理)、「高校数学の美しい物語」にもページがあった。他にも多数のページがヒットした。
集合論を基礎づけとする現代数論においてカントール理論は重要な役割を果たしているのだから、当然っちゃ当然か。
カントールの定理の証明は、拙稿では吉永『ゲーデル・不完全性定理』P72~73から引用する。「濃度」とは何かとか、この定理にどんな意味があるのかなどの説明は、今回は端折らせてください。「いつかやるの?」と更問いされたら困るけど。
「任意の集合Aのベキ集合2^Aの濃度は、Aの濃度よりも真に大きい」(カントール)
証明 いま仮に、Aと2^Aが対等であると仮定します。このとき、Aから2^Aへの双射(一対一対応)f が、少なくとも一つは存在します。Aの各要素aに対応するf(a)は f の定義からしてAの部分集合の一つだから、Aの要素aは集合f(a)に含まれるか、含まれないかのいずれかです。後者すなわち、Aの要素aで集合f(a)に含まれないものすべてから成る集合をBとします。
B = {a|a∈A, a∉f(a)}
BはAの部分集合なので、2^Aの要素であり、f が双射であることから、Bに対応するAの要素が一つだけ存在します。これをbとすれば、
b ∈ A, f(b) = B
さて、もしここでbがBに含まれるなら、Bの定義から、
b ∉ f(b) = B
となって矛盾。逆に、もしbがBに含まれないなら、すなわち、
b ∉ B = f(b)
なら、再びBの定義により、bはBに含まれることになり矛盾。
いずれの場合にも矛盾が生じるので、背理法により、このような双射 f は存在しません。(証明終わり)
論理式が用いられているので日常語で言い変えつつ、グレリングのパラドックスと比較してみよう。
集合Bの定義は「自分自身に対応するaを要素として含まないすべての集合」である。
これは「ヘテロロジカル」という言葉を「自分自身を対象として指し示さない言葉」と定義したことと相似している。
もし集合B自身に対応するbがBの要素であるなら、bは集合Bの定義から、Bの要素であってはならない。
これは、もし「ヘテロロジカル」がヘテロロジカルであれば、「ヘテロロジカル」は自分自身を対象として指し示してはならないのだから「ヘテロロジカル」はヘテロロジカルでない=オートロジカルであるという推論と相似している。
もし集合B自身に対応するbがBの要素でないなら、集合Bの定義により集合Bはbを要素として含まなければならない。
これは、もし「ヘテロロジカル」がオートロジカルであれば、「ヘテロロジカル」は自分自身を対象として指し示しているのだからヘテロロジカルとなり、振り出しに戻るという推論と相似している。
すみません、もし私が何か間違ったことを言っていたら、ぜひご指摘くださいm(_ _;)m
パラドックス大好き人間であるにもかかわらず、実は昔から背理法とパラドックスの違いがうまく説明できない。
カントールの定理の場合「任意の集合のベキ集合(部分集合を全部集めた集合)の元は、もとの集合の元と一対一対応しない」ということを証明するため、その否定「一対一対応する(双射 f が存在する)」という仮定を置いて矛盾を導いた。
グレリングのパラドックスでは、否定すべき命題が明示されていないから「パラドックス」なのだろうか。
私は、自然言語の場合「排中律」は無条件に成立しないから、すなわちオートロジカルでもヘテロロジカルでもない語が存在しうるから、グレリングのパラドックスは「疑似パラドックス」にすぎないと結論したのだった。
故・中村秀吉氏はそのような立場をとらず、ある言語は「ヘテロロジカル」という語を持つべきかという見地から、何ページかにわたって議論を展開している。
ここで「カントールのパラドックス」というのも強く思い出される。
「すべての集合を集めた集合Mというのを考えてみよう。
任意の集合のベキ集合が必ず元の集合より大きいのなら(より正確には「大きな濃度を持つのなら」)、Mのベキ集合2^MはMより大きい。
だがMはすべての集合の集合だから、自分自身のベキ集合2^Mも部分集合として含むはずである。だからMは2^Mより大きい」
これはパラドックスである。
カントールのパラドックスは、吉永『ゲーデル・不完全性定理』(P94)、中村『パラドックス』(P50)、野崎『逆説論理学』(P168) のいずれにも載っている。ネットを検索しても、多数のページがヒットする。
パラドックスの回避方法は「すべての集合の集合Mは構成不能」というものらしい。8月12日付拙稿で述べた「オートロジカルはオートロジカルか」という問いが「オートロジカル」の定義に基づいて構成不能というのと、なんか似てません? いやガチ数学勢の厳密な議論は、私のようなどこの馬の骨とも知れぬトーシロにはとても歯が立たないことは十分承知しているつもりですが。
もう一言。各書がグレリングのパラドックスとカントールの定理の相似に無関心な理由は、この手のテーマを扱った本では必ず「対角線論法」というのを論じるのに多数のページが費やされており、グレリングのパラドックスとカントールの定理はいわば二の次だからかも知れない。
個人のブログには、舌なめずりするようなちょうどいいテーマなんだけど。
対角線論法は数々の証明に応用ができ、いわばラスボスの「ゲーデルの不完全性定理」でも用いられている。
中村秀吉『パラドックス 論理分析への招待』は、講談社学術文庫版も出ているようです。

