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NHKテレビ『笑わない数学』散髪屋の店主は自分でヒゲを剃ればいいんじゃね?

NHK地上波TVの『笑わない数学』は、目下大好きなTVシリーズの一つである。最新の「1+1=2」も、たいへん面白く視聴した。

www.nhk.jp

19世紀の非ユークリッド幾何学登場をきっかけに「自明と思われたことでも疑わなければならない」と数学界では数学の基礎付けに関心が集まり、ペアノの公理系による自然数の再定義が行われたという。今回の放送の目玉の一つは、同公理系による「1+1=2」の証明だった。

そしてヒルベルトの提唱により矛盾のない数学体系の構築(ヒルベルト・プログラム)が構想された。しかし「ラッセルのパラドックス」が発見されたことによりその構想には疑念が生じ、ついには「ゲーデルの不完全性定理」が証明されたことにより同構想は完全に破綻した…というのがおおざっぱなあらすじである。

 

同番組では「ラッセルのパラドックス」は数学的な形ではなく、「村に一軒だけある散髪屋」という喩えによって紹介された。この喩えは、次のようなものである。

ある村に、一軒だけ散髪屋があった。この散髪屋の店主は、次のような張り紙を出した。

「自分でヒゲを剃らない村の男性のヒゲは、必ず店主がお剃りします
 自分でヒゲを剃る男性のヒゲは、店主は剃りません」

だが「店主自身のヒゲは誰が剃るのか」と考えると、パラドックスが生じる。

もし店主が自分でヒゲを剃らないとすると、張り紙の前半によって店主は自分のヒゲを剃らなければならない。

 ↑ ↓

もし店主が自分でヒゲを剃るとすると、張り紙の後半によって店主は自分のヒゲを剃ってはならない。

 

このパラドックスは有名で、一般向けのいろんな書物に引用されている。どれだったか忘れたが、ヒゲを伸び放題にした散髪屋の店主のイラストを載せているものもあった。だがそのイラストは正確ではない。もし店主がヒゲを剃らなかったら、店主はそのヒゲを剃らなければならなくなるからだ。

 

私もこのパラドックスは以前から知っていたが、我が脳内にときどき現れる脳内つっこみ係(以下「つ」と略記)が番組視聴中に突如出現して、こんなことを言い出しやがった。

つ「店主は自分で自分のヒゲを剃ればいいんじゃね?」

私「いやだからそうしたらパラドックスが…」

つ「張り紙のルールが店主自身に適用できるというのは自明なの? 『なんでも疑え』というのが今回のこの番組の趣旨ではなかったのか?」

 

自己言及のパラドックスに関しては、弊ブログにおいて何度となくネタにした。

すなわち「狂人のパラドックス」ということで

「狂人は自分が狂人だとは思っていない」

を自分自身に適用して自分が狂人だないことを証明できるかというと?

「私は自分が狂人だと思っている。ゆえに私は狂人ではない」

 ↓ ↑

「私は自分が狂人だと思っていない。ゆえに私は狂人である」

であるとか…

あるいは「優越のパラドックス」ということで

「自分が優れていると考えている奴は優れていない」

を自分自身に適用すると

「私は自分が優れていると思っている。ゆえに私は優れていない」

 ↓ ↑

「私は自分が優れていないと思っている。ゆえに私は優れている」

であるとか。

 

これらのパラドックスのエッセンスは、自分自身に関する命題「~である」と「~であると考える」が区別不能であるという点である。論理学を専攻した人からは、人間は矛盾したことを同時に信じることができるので、これは純粋な論理パラドックスではなく疑似パラドックスだと言われた旨も、過去記事に書いたことがある。

www.watto.nagoya

そうそう、自ブログ過去記事を読み返して思い出した。「~である」と「~であると考える」が区別不能であることは「死刑囚のパラドックス(抜き打ちテストのパラドックス)」の解釈にも使えるんじゃないかと考えたことがあったのだった(別解あり

 

短く言うと「ある対象についてその外部に定められたルールは、その対象自身にも適用可能か?」というのは疑ってみる価値がありそうだ、ということである。

 

しかし例えば「王様が決めたルールに王様自身は従わなくてもいい」「政府が定めた法律を政府自体は守らなくてもいい」なんてことになったら、とても嫌だなぁ。

そうならないために立憲主義というのがあるのだろうけど、昨今の日本の政治状況を見ていると、いろいろ怪しいところが目につく。

 

喩えの話ばかり続けているとキリがない。数学的、論理的にはどうなっていたっけ? 恥ずかしながら喩えでない「ラッセルのパラドックス」を、とっさには思い出せなかった。

三浦俊彦『ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学』(岩波新書) という本を本棚から探し出した。P36以降に何ページかを費やして説明があったが、自分流に要約する。

そうそう、集合論の話だった。集合論においては、集合の集合というものも考えることができる。

いま、集合Rは自分自身を要素として含まない集合の集合と定義する。

集合R自身は、Rの要素であるか?

もし要素だとすると、集合Rは自分自身を要素として含むので集合Rの要素でないことになる。

 ↓ ↑

もし要素でないとすると、集合Rは自分自身を要素として含まなないので集合Rの要素になる。

同書中には書かれていないが、このパラドックスは自然言語ではなく論理記号だけで記述することができる、

同書にはパラドックスの解消方法として、まず「自己言及の禁止(悪循環原理)」(P43~)が、続いて「階層分け(タイプ理論)」(P54~)が紹介されている。悪循環原理は副作用が強いとのことだが、タイプ理論は論理学に多くの成果をもたらしたようだ。例えば「現在のフランス王は禿であるか否か」という命題に明快な解釈を与えたことは、やはり他の一般向け概説書、入門書にもときどき出てくる有名な挿話だろう(不正確さを恐れず簡単に言うと「現在のフランス王」と「禿」を同時に満たす集合は空集合)。

ゲーデルの不完全性定理は、そのような逃げ道を完全にふさいだという意味でもセンセーショナルだったのだろうか。

 

そんなで同書他を参照しながら『笑わない数学』にさらに思いを巡らそうと思っていたところへ、「はてな」ホッテントリに上がってきた Sokrates=Chaos(id:Sokrates7Chaos)さんのこのエントリーを読んで、頭を抱えた。リンク失礼します。IDコールお騒がせします。

sokrates7chaos.hatenablog.com

うーん、数学に限らず何かを本格的にやっている人の書くものと比べたら、私のエントリーなど児戯に等しいものばかりと思ったことは、これで何度目だろう…?

 

しかし、Sokrates=Chaos さんの記事からは大いに学ばせてもらうとして、開き直るようだが私には私にできる範囲で読み、学び、書くことしかできないわけで、くじけながらも何とか頭の中のものを文章化したので公開する。

 

開き直りついでにもう一言。散髪屋の喩えに話を戻すと、店主が女性であればパラドックスは一気に解決する。店主は自分を含む女性のヒゲは剃らないのだ。今思いついた。

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