八幡宮の祭神である応神天皇と、その母である神功皇后について、何か書こうと思った。
その資料として、日本列島に移住した人類としては比較的古い縄文人と、比較的新しい弥生人の関係について、記事があったはずだと検索したら、幸い記憶に残っているものと同じと思しきものがヒットした。5年と3ヶ月ほど前の記事だった。縄文人のゲノムはアイヌ人と琉球人に多く残っており、よって両者同士は本土人より遺伝子的には近縁だというのだ。
あとでブログに書こうと思ってぶくましたら、あわわ、記事がホッテントリ入りしてしまった!
私のせいじゃないよね? 私のせいなの? いいけど。
まあ何かのはずみというものであろう。もし私に自分がぶくました記事をホッテントリ入りさせる 超能力でもあれば、好き勝手な記事をホッテントリ入りさせて遊ぶことだろう。
同じ日にぶくましたこちらの記事(ソースは同じ)は、ホッテントリ入りしていない。
閑話休題。何が言いたかったかというと、神功皇后と応神天皇は「三韓征伐」という事跡で知られているが、あくまでそれは神話上の話であって、そのような史実は確認できないということだ。
神功皇后に関しては、朝鮮半島出征時にのちに応神天皇となる胎児を宿しており、石を晒で巻いて押し当てることにより出産を遅らせたという、なんともすさまじいエピソードが記紀には記載されている。軍神の母のエピソードとしては、ふさわしいかも知れないが、今年1月のJR常磐線の車内出産事件を思い出すまでもなく、そのような手段による出産のコントロールは現実には不可能である。
そもそもなんでそこまでして朝鮮半島に出兵しなければならないのか?
むしろ上掲リンクのような記事を参照すると、朝鮮半島から移住してきた弥生系渡来人が、縄文系先住民を、一部は同化し一部は駆逐して、その支配層がのちの大和王朝となったと考えるべきだろう。
なぜ弥生系渡来人が日本列島に移住してきたかについて、手元に司馬遼太郎の講演録「文学から見た日本歴史」(『十六の話』 (中公文庫) 所収)がある。「司馬遼太郎が言ってた」「参考資料はWikipediaと知恵袋」#歴史オタクをどこまでイライラさせられるか選手権 という togetter が最近ホッテントリ入りしていたが、想像力の翼が力強すぎて史実の地に足がつかない小説の方はともかく、いつぞやの 富永仲基の話題 のように、エッセイの方は比較的信用できる…はず。
一言で要約すれば、弥生系渡来人は、鉄を求めて朝鮮半島から日本列島に移住してきたというのだ。
朝鮮半島には、紀元前108年に楽浪郡という漢帝国の直轄地が置かれ、それが四世紀にわたって存続した。その間、漢字などの文化とともに、製鉄などの技術が移植されたと司馬は論じる(『十六の話』P26~)。まあそうだろう。
だがコークスなどない当時の製鉄は、砂鉄を木炭で鍛錬するもので、大量の木材を消費する。ここからは、司馬の文章を直接引用しよう。
おそろしいばかりの自然破壊でした。鉄の精錬には、木炭を必要とします。わずか数トンの鉄をつくるのに、一つの山が、裸になるほどの木炭を必要とします。
製鉄集団は、おそらく女性や子供をふくめて何百人という単位だったでしょう。それらが、朝鮮の山から山へ移動して、丸裸にしてゆきました。
むろん、そのあとに植林をするということはしなかったようです。朝鮮の山は、不幸なことに自然の復元力がよわいのです。むろん、ギリシア文明が去ったあとのギリシアの自然ほどではありませんが、朝鮮の山々は乾き、山の土壌は風に吹きとばされて、岩の層が露出するといった風景になりました。むろんこれらは、小説家的な想像力でいっているので、三世紀、四世紀の朝鮮には、そのことを書いた文献はありません。
≪中略≫
かれらは、遊牧民が草を求めて移動するように、森を求めて移動するひとびとでした。朝鮮の山々を裸にしてしまったとき、はるか南の海に、樹木の多い島々があるということを知ったのです。それが日本でした。やがていくつものグループが海をわたって、日本に来ました。五世紀のころだったと私は推測しています。
司馬遼太郎 『十六の話』(中公文庫)P22~23
平昌に限らず朝鮮半島の山岳部は、たいへん寒冷なのだ。
引用部の直後に、司馬は主な入植地として、島根県の出雲地方を挙げる。宮崎駿監督アニメ『もののけ姫』を連想させる話だ。
しかし、去年(2107年)世界遺産に登録され話題になった「海の正倉院」「海のシルクロード」こと宗像大社・沖ノ島の存在も思い浮かぶなど、入植ルートは複数あり、またその期間も長期にわたるものだったろう。
入植という言葉を使ってしまったが、弥生系渡来人からすれば、日本列島は植民地以外の何物でもなかっただろう。なにせ先住民は、鉄製の武器を持っていなかった。武器だけではない。鉄製の農機具の生産力、作業効率は、非鉄製のそれらの何物の及ぶところでもない。
けっきょく縄文系先住民は、武力でも文明でも圧倒的に敵わない弥生系渡来人に、同化するか駆逐されるかの二択から選ばざるをえなかったのだろう。
この話題は、もうちょっと続けます。
八幡宮の正面鳥居を裸木越しに。実はこの木はウメなのだ。
ツボミがふくらみ始めている。
正面鳥居右手の宅地造成区域では、新築の基礎工事が始まっていた。
ここの神社に参拝を始めてわずか20日の間にも、小さな変化がいくつも現れている。
石段下の門柱を撮ったことがなかったので、撮ってみた。
文字起こし
村社八幡社境内有明治三十九年
十月 皇太子殿下御駐輦之址
駐輦の読みが「ちゅうれん」で「天子が行幸の途中で車を止めること」の意であることは、1月21日付のこちらの神社への参拝一回目 のエントリーに書いた。
皇太子は、後の大正天皇のことだろう。
駐輦の記念碑は、拝殿の左側にもある。見えにくいけど次の写真の正面やや左の奥だ。
この丘陵地の、ここらではたぶん標高の一番高いところだと思う。
手前の「奉献」ばかりがよく見えるな。
接近。刻字は「皇太子殿下御駐輦地」。
残り十五回だったので、体感的にはあっけなく済んでしまった。
これでここも100回コンプリート。近いからお参りにはまた来るけど。
さあ、次はどこへ行こう? 近所に神社はまだいっぱいあるのだ。
おうちに帰れる日まで続けるのだ。
今回の締めとして、社の杜を、遊水池の堤防の裸木越しに。
実はこの並木はソメイヨシノなのだ。満開を迎える日は、決して遠くはない。
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