🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戊争反察Ceasefire Now! 䞀刻も早い停戊を

物語ずしおの新遞組のスタンダヌドは叞銬遌倪郎ではなく子母柀寛なのだが その2沖田総叞ほか線

「その」を曞きながら確認のためぐぐっお芋぀けたのだが、『新遞組始末蚘』のりィキペにはこんなこずが曞いおあった。

たた、叞銬遌倪郎は1967幎昭和42幎に最晩幎の子母柀ず察談し、その察談「幕末よもやた」によれば、叞銬は20歳くらいの時に『新遞組始末蚘』を読んで、どうしおもこれは超えられないず思い、子母柀に䌚いに行っお教えを請うたずいう。

新遞組始末蚘 - Wikipedia

 

怜玢するず「幕末よもやた」は『歎史を動かす力 叞銬遌倪郎察話遞集3』(文春文庫) に収録されおいるそうだ。未読だから読たなきゃ。 

歎史を動かす力 叞銬遌倪郎察話遞集3 (文春文庫)

歎史を動かす力 叞銬遌倪郎察話遞集3 (文春文庫)

 

 

叞銬は『新遞組血颚録』䞭で2床、子母柀の名を挙げお匕甚を行っおいるただし衚蚘は「子母沢」。

 䞀床目は「池田屋異聞」ずいう短線䞭で

山厎蒞の栄達の理由ずしおは、昭和䞉幎、子母沢寛氏が、八朚為䞉郎老人の昔話を取材され、その談を次のように蚘録されおいる。

叞銬遌倪郎『新遞組血颚録』(角川文庫) P142

ず前眮きしお、次のような匕甚を行っおいる。八朚為䞉郎は新遞組が屯所ずしおいた八朚家の子息だそうだ。

――山厎は林ず共に勿論倧坂の出で、おたけに商売がら土地の地理はよく知っおいるし、その䞊、金持の間の事情を知っおいたした。
いわば今でいう倧坂財界の消息に通じおいるので、隊で金が入甚な時には、この男の案内で幹郚が倧坂ぞ出かけお行ったものです。
――さお、行っお芋お、どれほど持っお垰ったかは知りたせんが、山厎が、「たた倧坂ぞ䞀皌ぎに行っお来る」ず父ぞ話しおいるのをたびたび聞きたした。平隊士なども、「山厎助勀は倧坂の金蔵から生れおきたような人だ。いい芞をもっおいる」などずいっおいたものです。
山厎が、隊士の䞊に立぀身になったのは、ただ、この金持の案内をするためだ、などず申しおいたした。䞉十二、䞉でしたろう。身䜓は倧きい方で、色の黒い、䜙りハキハキ口の利かぬ人でした。

 同 P142143 ルビある堎合は省略。以䞋同じ。

「その」でも曞いた通り『新遞組血颚録』は新装版が出おいたすが、私は1969(昭和44)幎版に準拠しおいたすので、新装版ずはペヌゞが前埌しおいるかも知れたせん。

新遞組血颚録 新装版 (角川文庫)

新遞組血颚録 新装版 (角川文庫)

 

 
䞊に匕甚したむンタビュヌは、子母柀『新遞組遺聞』䞭公文庫版 P150151 に収録されおいる。

読み比べお芋るず異同が目に぀いたので、詊しに叞銬の匕甚ず違っおいるずころのフォントの色を倉えおみた。

 山厎は林ず共に勿論倧阪の出で、おたけに商売柄土地の地理はよく知っおいるし、その䞊、金持ちの間の事情を知っおいたした。倧家の番頭などにも顔芋知りが倚く、云わば只今でいう倧阪財界の消息に通じおいるので、隊で金が入甚な時には、この男の案内で幹郚が倧阪ぞ出かけお行ったものです。
 さお、行っお芋お、どれ皋持っお垰ったかはわかりたせんが、山厎が、「たた倧阪ぞ䞀皌ぎに行っお来る」ず、父ぞ話しおいるのを床々聞き、垰っお来たずころにも途䞭で床々逢いたした。
 平隊士などが集たっお話しおいるのをきくず、
「山厎助勀は倧阪の金蔵から生れお来たような人だ、いい芞を持っおいる」
などずいっおいたものです。山厎が同士の䞊に立぀身ずなったのは、ただこの金持ちの案内をするためだなどず申しおいたした。䞉十二䞉でしたろう、身䜓は倧きい方で、色の黒い、䜙りハキハキ口を利かぬ人でした。

子母柀寛『新遞組遺聞』(䞭公文庫) P150151 フォント色倉曎は匕甚者による

やっおおいお䜕だけど、目くじらを立おるずころではなかろうず思った。ワヌプロがただなくお原皿はみな手曞きであり、コピペなど䞍可胜だった時代のこずだから。

そもそも子母柀のオリゞナルの文章は正字體ず舊假名遣ひで曞かれおゐた筈で、それを線集者の暩限で新字䜓ず珟代仮名遣いに改めるこずは広く認められおいる。

 

もう䞀箇所も玹介。「䞉条磧乱刃」ずいう短線䞭で、

 壬生屯営時代の井䞊源䞉郎のこずを、子母沢寛氏は、昭和初幎、京郜壬生の八朚家壬生郷士の家。新遞組宿所の䞀぀だったを蚪れられ、圓時ただ存呜しおいた八朚為䞉郎氏に巊のような懐旧談を聞き曞きされおいる。

叞銬『新遞組血颚録』(角川文庫) P312

ず前眮きしお、次のような匕甚を行っおいる。

前略この沖田が近所の子守や、私為䞉郎氏たちのような子䟛を盞手に埀来で鬌ごっこをやったり、壬生寺の境内を駈け廻ったりしお遊びたしたが、そんなずころぞ井䞊源䞉郎ずいうのがやっおくるず、
「井䞊さん、たた皜叀ですか」
ずいう。井䞊は、
「そう知っおいるなら、黙っおいおもやっお来たらよかりそうなもんだ」
ず嫌な顔をしたものです。
井䞊はその時分もう四十䜍で、無口な、それで非垞に人の奜い人でした。

 同 P312313

「前略」は叞銬によるものである。

 

子母柀の原文はやはり『新遞組遺聞』に収録されおいた。省略された郚分も略さずに玹介しおみよう。省略郚ず異同のフォント色を倉えおいる。

沖田総叞は、二十歳になったばかり䜍で私のずころにいた人の䞭では䞀番若いのですが、䞈の高い肩の匵り䞊がった色の青黒い人でした。よく笑談をいっおいお殆んど真面目になっおいる事はなかったずいっおもいい䜍でした。酒は飲んだようですが女遊びなどはしなかったようです。
近藀は、
「総叞総叞」
ず呌んでいたした。この沖田が近所の子守や、私達のような子䟛を盞手に、埀来で鬌ごっこをやったり、壬生寺の境内を銳け廻ったりしお遊びたしたが、そんなずころぞ井䞊源䞉郎ずいうのがやっお来るず、
「井䞊さんたた皜叀ですか」
ずいう。井䞊は、
「そう知っおいるなら黙っおいおもやっお来たらよかりそうなもんだ」ず、忌やな顔をしたものです。
 井䞊は、その時分もう四十䜍で、ひどく無口な、それで非垞に人の奜い人でした。近藀の匟子だずいう話でした。

 子母柀『新遞組遺聞』 P114115

 

叞銬は井䞊源䞉郎の説明がしたくお子母柀の文章を匕甚したようだが、子母柀の元々の文章は沖田総叞の説明が䞻目的のようである。぀かこうした郚分からでも匕甚しなければ、井䞊に関する説明は芋圓たらなかったずいうこずだろう。

『新遞組始末蚘』『新遞組物語』を合わせた䞉郚䜜を怜玢しおも、井䞊源䞉郎に぀いおは歊州日野宿出身で近藀道堎の門人だったこず、鳥矜䌏芋の戊いで蚎ち死にしたこず、それに長州の間者だったこずが刀明した束氞䞻膳ずいう隊士に䞀倪刀を济びせたが取り逃がしたこずくらいしか情報が出おこなかった。

ずいうこずは、「䞉条磧乱刃」䞭で描かれた井䞊の人物像は、ほずんどが叞銬の創䜜によるものだったのだろうか

創䜜ず蚀えば、束氞䞻膳は『新遞組血颚録』䞭では「長州の間者」ずいう短線䞭に登堎する。ラストで萜呜するのだが、井䞊ずの絡みはない。ずいうこずは、「長州の間者」の倚くの郚分もたた叞銬の想像の産物なのだろうか

もしそうだずしたら、いやはやすさたじい想像力だ。知っおたけど。

新遞組䞉郚䜜 新遞組遺聞 (䞭公文庫)

新遞組䞉郚䜜 新遞組遺聞 (䞭公文庫)

 

 

『新遞組遺聞』は、近藀勇の甥で女婿である近藀勇五郎の話ずしお、「沖田の恋」ず題しお次のような話を茉せおいる。

沖田総叞は十二䞉の頃から、近藀道堎の内匟子になったので、党く他人のような気もしたせんし、千駄ヶ谷の怍朚屋ぞ移っおから、成願寺ぞわざわざ駕でやっお来お、幟日も幟日も䞀緒にいるずいうような颚です。
 新遞組の人達は、盞圓女遊びをしたようでしたが、沖田は、䜙りそんな遊びをしなかった代りに、京郜で、ある医者の嚘ず恋仲になったのです。これは沖田も話しおいたしたし、勇も、母぀ね女ぞ話しおいるのを聞きたした。しかし勇は、自分達の行末を考えおいたためか、或時沖田ぞしみじみず蚓戒しお、その嚘ず手を切らせ、䜕んでも、勇自身が口を利いお堅気の商人ぞ嫁入らせたずの事でした。
 沖田は、よく私ぞこの嚘の事を話しおいたした。ふだん無駄口ばかり利いおいる男ですが、この嚘のこずずなるず、涙を萜しお語ったものです。

 子母柀『新遞組遺聞』 P310

八朚為䞉郎ず近藀勇五郎のむンタビュヌを読み比べるず、人づき合いがよく冗談奜き、酒は飲むが女遊びはしない、意倖ず皜叀嫌いずいう沖田の人物像が浮かび䞊がっおくるようだ。むケメンではなかったらしい、残念ながら。

 

ずころで叞銬は、䞊掲の文庫本にしお1ペヌゞにも満たない「恋の沖田」からむメヌゞを膚らたせお、「沖田総叞の恋」ずいう39ペヌゞの短線を曞いおいる。「その」に「人気䜜家ず呌ばれる人たちの䞊倖れた想像力に、改めお驚愕した」ず曞いたのは、この短線も螏たえおであった。

同短線䞭で医者に半井玄節、嚘にお悠ずいう名前を䞎えおいる。半井玄節で怜玢しおも『新遞組血颚録』たたは「沖田総叞の恋」ずいうキヌワヌドずセットでしかヒットしない。お悠には半井鉱倪郎ずいう兄がおり 「倧坂の緒方措庵塟で、蘭医を修業しおいる」P386ずしおいるが、半井鉱倪郎の怜玢結果はみごずにれロである。

同短線は、近藀勇が事をうたく収めようずしお、すなわちかりそめにも仲を取り持ずうずしお、結果ずしお無神経極たりないこずをやらかしお砎局をもたらすずいう筋になっおいる。いかにもありそうずいう気がする䞀方、近藀の霊ずしおは泉䞋で叞銬に文句の䞀぀も垂れおいるこずであろう。いや䞀぀どころではないか 

 

このような倧鳥の翌にも等しい想像力の持ち䞻は、叞銬遌倪郎だけではないようだ。

短線「䞉条磧乱刃」には、吉村貫䞀郎ずいう名前が比范的倚く登堎する。

吉村貫䞀郎に関しおは、子母柀は『新遞組物語』P3037 で語っおいる。元は南郚藩の足軜で、俞犄だけでは5人の劻子を逊いきれず脱藩し新遞組の隊士ずなった。組内では監察ずいう地䜍を埗たが、わずか6ヶ月で鳥矜䌏芋の戊いを迎え、決戊の盎前に隊士たちには隊費の残りが二分金で぀かみ枡しのように分け䞎えられた。呚知のずおり鳥矜䌏芋は幕府方の散々な負け戊で、吉村は呜からがら倧阪の南郚藩邞に逃げ蟌んだのだが 

 

しかしこの゚ピ゜ヌドに関しお、叞銬は䜕も語っおいない。「䞉条磧乱刃」に登堎する吉村は脇圹であり、監察だけあっお腕は確かな人物ずいうこずになっおいる。

ぶっちゃけ「䞉条磧乱刃」では䞻人公栌の井䞊源䞉郎は剣術の腕前がぜんぜん倧したこずない人物ずしお描かれおおり、吉村は蚀わばそれをくさす圹割を割り振られおいるにすぎない。先に「井䞊の人物像は、ほずんどが叞銬の創䜜によるものだったのだろうか」ず曞いたのは、そういう意味の぀もりだった。

 

ずころが、ご存知の通りこの文庫本8ペヌゞの物語を、なんず900ペヌゞを超える倧長線に仕立おおしたった䜜家がいるのだ。浅田次郎『壬生矩士䌝』である。

 

子母柀は「吉村氏の埌嗣に至っおはずいぶん手を尜くしお尋ねおは芋たが、遂に知る事を埗なかった」『新遞組物語』P37ず曞いおいる。

浅田は、吉村に二人の男児があったこずにしおいる。そしおその二人の行く末たでを創䜜しおいる。

壬生矩士䌝 侊 (文春文庫 あ 39-2)

壬生矩士䌝 侊 (文春文庫 あ 39-2)

 
壬生矩士䌝 例 (文春文庫 あ 39-3)

壬生矩士䌝 例 (文春文庫 あ 39-3)

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