しいたげられたしいたけ

「黒い雨」訴訟の控訴に抗議する

神社仏閣ネタ2題(その2)南宮大社と朝倉山真禅院

前回「その1」は単独行だったが、今回は実家の身内の要請である。近年弊ブログにおいて身内への言及が増えているのは家庭の事情というやつですお察しください。

身内は常々「自分は信仰がない」という意味のことを口にするタイプであるが、今回「南宮大社に行きたい」と名指ししたのは、想像するにやはり気伏せりでどっか行きたかっただけではなかっただろうか?

南宮大社は美濃国一宮である。変哲のある神社と言ってよかろう。

 

いらんことだが、名高い寺院を「名刹」というが、名高い神社には何か別の言い方ってないのかな?

 

実家から南宮大社のある垂井町までは、隣町ってわけにはいかないが、車を使えば40分ほどで行ける。

こういう場合、往復のドライブが、ノスタルジーと言っていいのか「あそこがああも変わってしまった!」「あそこは変わらないな」と記憶を刺激して印象深いものだが、詳細を他人に伝わるように言語化できる自信がないので割愛せざるを得ない。

くれぐれも、よそ見などして事故を起こしちゃいけないな。 

 

広い無料駐車場があるのが、ありがたかった。初詣の時期以外はガラガラのようだ。濃厚接触と三密はない。

駐車場に面した由緒書き。

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弊ブログ勝手に恒例、文字起こし。改行位置、変更しています。ルビ、英文がある場合は省略します。以下同じ。

南宮大社のあらまし
一、御祭神は金山彦命をお祀り申し上げ、古来金の守護神として、また魔除け、災難除けの大神として御神徳の高い神様であらせられます。
一、御鎮座は遠く、人皇崇神天皇の御代と伝えられ、美濃国の国府から南方に当たる故、南宮大社と呼ばれるようになりました。
一、古来朝野の崇敬極めて厚く、天武天皇・聖武天皇の御参拝を始め、既に千年前より国幣の名神大社に列せられ、正一位勲一等の神位を極められて美濃国の一宮として、また広く金山彦大神の総本宮として厚く崇敬されてきた名大社であります。
一、天下分目の関ヶ原合戦に、御社殿は惜しくも兵火にかかって炎上した為、徳川家光公が寛永年間(三六十年前)莫大な経費を寄進して再建したのが現在の御社殿であります。御祭神の御神威をよく表現した名建築として重要文化財に指定されています。
一、特殊神事
 節分祭(二月節分)大的神事
 例大祭(五月五日)御輿渡御蛇山神事(重要無形文化財)
 金山祭(十一月八日)ふいご祭古式鍛錬式奉納

お金の神様とはまた、どストレートな。

いやいや、お金は大事です。なんとなくアフィリエイト貼りたくなった。 

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (角川文庫)
 

  

駐車場から正門に向かう道すがらに、咲き残りのツバキがあった。

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奉納椿
 垂井町
 ユニチカ垂井工場
 昭和五十二年春

 

駐車場から正門に向かう道すがらにあった由緒書き。

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  南宮大社御由緒
 御祭神 金山彦大神
御鎮座は古く人皇十代崇神天皇の御代と伝えられ国府から南方に当たる故 南宮大社と称せられている
古来金宝の守護神 破魔除災の神と御神威高く既に千年前延喜の制に國幣大社に列せられ一宮として亦広く金之總本宮として崇敬厚い名社である
御社殿は関ヶ原合戦の兵火に遇いて炎上の為徳川家光公旧に復して再建され、明治維新の神佛分離令に依り堂塔は他に移建され今日に至る
本殿以下十八棟が国の重要文化財の建築である
 節分祭 二月節分    大的歩射神事
 例大祭 五月四日・五日 御田植神事蛇山神事
             御輿渡御国指定重要無形文化財
 金山祭 十一月八日   通称ふいご祭

駐車場にあった由緒書きと内容が重複しているような気がするが、こちらの気にすることではないか。 

 

絵地図。帰り際に見つけたものだが、説明の都合上、先に貼る。

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正門。絵地図には「楼門」とあったので、それが正式名称だろう。

車のお祓いを終えた神職さんが、帰るところが写っている。自動車祈祷を売りにしている社寺、今どき多いよね。

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接近。立派!

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楼門をくぐって玉垣の内部に入る。絵地図によると、手前(左側)にあるのが舞殿で、奥(右側)が拝殿だそうだ。

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内陣への入口。ここの本殿と摂社末社は、まとめて内陣の中にあるようだ。

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上の写真の右手前あたりにあった祈祷受付。

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上の写真のさらに右側、楼門の左手には、大量の願かけ絵馬。

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駐車場に戻る玉垣沿いの経路には、ヤエザクラが咲き誇っていた。絵地図はこの先にあた。

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駐車場、一枚目写真の由緒書きの対面あたりに、朝倉山真禅院の看板が出ていた。南宮大社の元の神宮寺だそうだ。

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同行者が行きたいと言い出したので、行ってみた。公称900mだったら車であれば物の数ではない。 
道路沿いから三重塔がよく見えた。

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本堂に至る参道。この向かいに十分な広さの無料駐車場があった。ありがたい。

右端が手すり付きスロープになっていたので、足弱の同行者も辛うじて上れた。

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参道を上り切ったところにあった説明書き。 

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朝倉山真禅院は、明治時代の神仏分離により、南宮大社から移転した寺院である。
 この寺の境内の鐘楼東側にある覆い屋には、北条政子が源頼朝の菩提のために寄進したと伝わる鉄塔が残っている。現存する鉄塔には最上段の部分がなく、関ケ原合戦に際し長宗我部盛親の陣営で煮炊きのために利用されたといわれている。

 

本堂。お参りしました。

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上の写真の左端に見えている由緒書き。

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 朝倉山真禅院
寺は今から約一二五〇年前の創建で、開基は行基菩薩自ら本尊阿弥陀如来の尊像を彫刻され象背山宮処寺と名付け、本州阿弥陀如来四十八願の霊刹の第三十四番札所とお定めになったのが天平十一年二月(七三九年)であり、その翌年十二月二日には聖武天皇が不破頓宮より宮処寺及曳常泉へ行幸されています(続日本紀・日本紀略)その後延歴の年勅令により比叡山延暦寺宗祖伝教大師により南宮神社と両部習合され寺号を神宮寺と改められました。その功徳は天慶二年(九三九年)の平将門叛乱の時、朱雀天皇の勅令により将門調伏祈願のため延暦寺僧明達阿闍梨助修僧二十人と共に南神宮寺で秘法を修したところ結願の時将門首級到着で、その法験を御嘉賞になり法躰殿の勅額と若干の寺社領を下賜されました。(扶桑略記・帝王編年紀・元享釈書)(此時十禅師社を造営し弟子十人を社僧とす=十坊設置)
ついで後冷泉天皇の康平二年正月(一〇五九年)には安倍貞任追討の御祈願ありその霊験により法性大菩薩の勅額と若干の寺社領を賜わりました。このように霊験により篤い信仰を得ましたが、文亀元年(一五〇一年)四月の火災で諸堂社灰燼となりましたので、諸方に勧進し、時の美濃守護土岐政房に訴願したところ政房これを諸司に命じて復旧に着手、十一年後の永正八年(一五一一年)漸く竣工となりました。
くだって天正十七年十一月十六日(一五八九年)豊臣秀吉より供田として百六十石、寺社堪忍分として二百石の朱印を下され、家康の代(慶長十四年十月二十日)には四百五石の朱印状となりましたが、慶長五年九月(一六○○年)の関ヶ原合戦によって、諸建築は兵火にかかり烏有に帰しました。
因って南宮権現執行利生院、永純、本寺の東叡山寛永寺住職(開基)慈眼大師天海大僧正(徳川幕府の政務に関与)に再建を嘆願、時の大御所(家康)これを承諾するも戦後とて渉らず、ようやく徳川三代将軍家光により造営の運びとなり、寛永十九年(一六四二年)九月十一日に再興されましたが、明治初年神仏習合廃止(神仏判然の令)により南宮社執行真禅院秀覚法印二十二堂搭坊舎を統廃合し村人の絶大な奉仕により此の地に移し朝倉山真禅院となし現在に至っています。
通称世人に朝倉山と親しまれ、時には朝倉寺とも呼ばれています。
  山主敬白
一、本地堂(重要文化財)阿弥陀如来四十八願霊刹第三十四番札所。
  旧南宮大社本地堂・本尊無量寿如来(南宮大社本地仏)
一、三重搭(重要文化財)大日如来、再建寛永十九年九月十一日
観音堂旧美濃西国第十七番札所・神護二年七月の創立・元宝珠院
一、梵 鐘(国重要文化財)
一、鐘 楼
一、鉄 搭
一、観音堂 神護二年七月の創立、元宝珠院
一、薬師堂
一、護摩堂 一、弁財天堂 一、十王堂

 

本堂右隣にあった観音堂。十一面観音は秘仏で御開帳は年に一度だが、お前立の仏像が拝めた。

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なお掲示によると、今年の御開帳は新型コロナのため中止で、次回は来年2021(R3)年4月18日(日)とのことだった。

 

賽銭箱前に数珠や経本などの土産物が並んでいて、B5判三つ折りの無料パンフレットも置いてあった。こんなの。

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内容は、若干の異同はあったが本堂左手の由緒書きとほぼ同じだった。

実は由緒書きの看板がOCRにかかりにくそうだったので、文字起こしはパンフレットをスキャンしOCRしたものに修正をかけてます。

 

 境内から見た三重塔。すっきりと形のいい塔である。では不細工な塔と言えば具体的にどこがあるかと質問されたら、返答に困るかもだが。

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上の写真の右下隅に辛うじて見えている説明書きを接写した。

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国重要文化財 真禅院 三重塔(建造物)
  昭和五十二年六月二十七日指定
  所有・管理者・真禅院
 この三重塔は、天平十三年(七四一年)辛巳歳の草創で、関ケ原合戦により焼失したが、徳川三代将軍家光により造営の運びとなり、寛永十九年(一六四二年)九月に再建された。その後明治初年の神仏習合廃止(神仏分離令)により南宮社執行真禅院秀覚法印が三重塔を含む二十二堂塔を統廃合し、村人の絶大な奉仕によって明治四年(一八七一年)三月までに南宮社から現在の地へ移した。
 構造は、三間三重塔婆、本瓦葺で柱礎石上端より相輪頂上までの全高は二十五.三八メートル、内部に本尊大日如来を安置する。
 この塔は、長年の風雪と荷重により全体に西方に傾斜していた上に昭和五十六年の轟絶で屋根に損傷を受けたため、文化庁などの指導を受けて昭和五十七年七月から昭和六十年三月までの三十三ヶ月を要し、総事業費一億二千三百万円余りを費して全面解体修理を行った。
  垂井町教育委員会
    真  禅  院
    朝倉山奉賛会

 

三重塔を背にして境内を眺めたところ。左側に鐘楼、右側に本堂と観音堂が並んでいる。

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参道を上ったところにあった説明書きに出てきた鐘楼というのは、これのことだろうか?

今、写真を見たら、写真左下隅の鐘楼のところにも説明書きらしきものがあったのだった。接写しておけばよかった! こういうことは、えてして後になってから気づくものだが。

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