しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを求めない

神社仏閣ネタ2題(その1)知立神社と遍照院

おそらく現今の全国共通の事情も影響してか、ブログのネタがない。ネタがないくらいはいいのだが、精神衛生上あまりよろしい感じがしていない。

ちょっとくらい気晴らしがしたいと思うのだが、何日か前の拙記事 に書いたように濃厚接触や三密(密閉・密集・密接)を避けているだけでは不十分だといい、万が一にも救急医療のお世話になるようなことが生じると医療現場に多大な負担をかけることになるので、おとなしく引きこもっているのが上策だということは理解しているつもりである。

だが先週の後半は、我慢ができず何度か不要不急の外出をしてしまった。近隣の神社仏閣巡りである。それを2回シリーズでネタにする。好き好んで救急搬送される奴は誰もいないが、初詣と祭礼のシーズンさえ外せば参詣に濃厚接触や三密はないはずだ。

 

まずは現住所の隣町にある、わりかし高名な社寺にお参りした件から。弊ブログで参詣を話題にするときには「なんの変哲もない近所の神社」というのをよく枕詞に使っているが、じゃ「変哲」のありそうな社寺とはどんなところかというと、隣の市まで足を延ばせば心当たりがないことはない。某200万都市ではない。あのくらい馬鹿でかい街だと、変わったところはいくらでもあるだろう。拙宅から見てそっちとは反対方向である。だがよその社寺や祭礼には冷淡なのが普通で、こんな状況でもなければお参りに行こうという気は起こさなかったかも知れない。神社仏閣に興味がない人は、何事があってもお参りに行こうという気は起こさないかもだが。

 

どうでもいい前置きが長くなった。しかも、いささか失礼な物言いだったかも知れない。

知立神社。エンジンと車輪のついた道具を使えば、うちから近い。

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鳥居の左右に案内板があった。上の写真では左側のほうは写っていないが。

これは向かって右側のほう。

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弊ブログ勝手に恒例、文字起こし。改行位置変更しています。ルビと英文がある場合は省略しています。以下同じ。

 知立神社由緒
當神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路、此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途奉賽のため創建あらせられしと云う。延喜撰格の際は官社に列し、歴朝或は神階を奉られ或は昇叙せられて、元寇襲来に際して異国調伏の勅願あり、明治元年明治天皇御東幸の際に勅使を差遣して国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬厚く、又歴代各藩主も或は土地を献じ或は社殿を造営し或は神饌幣帛を献ずる等各々赤誠を捧げた。又衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え御分社は県内は固より遠く関東関西に亘って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在してその数を知り難い。又當社は弘法大使の崇敬殊に厚く三河三弘法巡拝者は必ず當社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。
 御祭神
  鸕鷀草葺不合尊
  彦火火出見尊
  玉依比売命
  神日本磐余彦尊
  (神武天皇)
 相殿
  青海首命
 例祭日
  五月三日(元旧暦四月三日)

主祭神の鸕鷀草葺不合尊というのは、コトバンクによると「ウガヤフキアエズノミコト」と読み、神武天皇の父神だそうだ。ただしウィキペによると ”事績は『日本書紀』『古事記』ともになく、系譜上のみの存在” との由。

彦火火出見尊は鸕鷀草葺不合尊の父にして神武の祖父(ウミヒコヤマヒコの山彦でもある)、玉依比売命は鸕鷀草葺不合尊の妻にして神武の母。つまりご一家ということみたいだ。

 

例によっていらんことを書くと、山本有三『ウミヒコヤマヒコ』は名作ですよね。元の記紀神話がいかにも古代って感じであるのに対し、これぞ近代の精神!という匂いがする。 

 

閑話休題。鳥居向かって左の案内板。

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こちらは注意書きのようだ。文字起こしは省略します。

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この神社で、目を引くのは多宝塔の存在だ。

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知立神社多宝塔
  国指定重要文化財(建造物)
  明治四十年五月二十七日指定
 嘉祥三年(八五〇)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を建立したといわれます。その後天文十六年(一五四七)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正六年(一五〇九)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。
 相輪先端までの高さは約十四・五メートル、屋根は柿葺、四隅に宝珠を置きます。これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、大正九年(一九二〇)の解体修理の際に復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺に安置されています。
 和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。
 知立市教育委員会

どうでもいいことだけど、さっきの神社の由緒書きはOCRが使えなかったので手起こしした。この説明書きはOCRにかかってくれた。あたりまえだがOCRが使えると、やっぱり楽だ。

 

本社拝殿の手前に、池と太鼓橋があった。

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知立神社石橋
  市指定文化財(建造物)
  昭和四十四年四月一日指定
 この橋は半円形に反つた太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長六・六m、高さ一・六八mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ十二cmの石の板十九枚が並べられている。
 欄干南側右柱には「享保十七年(一七三二)十一月吉日」と刻まれている。
「東海道名所図会」には「神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。
 片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。
  知立市教育委員会

 

知立は古くは「池鯉鮒」と書いただけあってか、コイがいっぱいいた。フナはいるかわからなかった。片目の魚も、いるかどうかわからなかった。

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拝殿右側の社務所。巫女さんがいた。お守り売場にも人がいた。中小の市だと、職員が常駐している神社は市内に一社あるかないかで、ほどんどは無人のはずだ。だから神職さんが常駐している神社は、変哲があると言ってよかろう。

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拝殿を社務所側から。

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拝殿正面。お参りしました。

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拝殿の右側に摂社末社が並んでいたが、どれも立派な社殿だった。

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親母神社
御祭神 豊玉媛尊

 

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合祀殿
御祭神 天照皇大神を始め十柱

 

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小山天神社
御祭神 少名昆古那命

 

神馬。中に作り物の馬がいた。

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秋葉社。これだけで単独の神社かと思うくらい立派な造りである。

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続いて弘法山遍照院という寺院。さきの知立神社は、知立市の中心駅である名鉄知立駅から見ると、ほぼ真北にあるが、こちらは南の方角にある。

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ここはどう変哲があるかというと、知立駅のホームに遥拝所があるのだ。駅構内にこういうものがあるのは、大変珍しいとのこと。

知立駅は現在建て替え工事中で、現状がどうなっているかはわからないが、古い駅舎の写真を Wikipedia からお借りする。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/e/e8/%E7%9F%A5%E7%AB%8B%E9%A7%8502.jpg

ファイル:知立駅02.jpg - Wikipedia より。

全く個人的な事情で他人には関係のないことなのだが、この遍照院というのは、さきの知立神社のあたりにあるように、ずっと誤解していた。豊橋方面ホームの先端、駅の最南端あたりにあるのだから、遥拝というからには本体がそっちの方向になきゃおかしいと、ちょっと考えればわかることなのに。

誤解というのは、どれも他人から見るとナンセンスなものである。

 

とまれ、山門。

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上の写真の左端ぎりぎりに見えている案内板。

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左側の写真下の説明書きを文字起こし。

 弘法大師ゆかりの寺として人々に親しまれています。
 弘法山遍照院は、三河三弘法の第一巻札所として親しまれています。その昔弘法大師が弘仁6年(815年)42歳の頃、東国巡錫の際にこの地に1ヶ月間逗留され、庭前の赤目樫の木をもって三体刻んだと言われる自像のうちのー体を本尊として、弘法大師自身により創建されました。
 特にこの本尊は、この地の民衆との別れを惜しんで、その顏がやや右を向いている姿であり、古来より 「見返り大師」と呼ばれています。
 弘法大師はこの寺を生きるものすべての悲しみ、悩み、苦しみが共に語られ、解決されるようにとの願いを込めて建てられました。以来、およそ1200年の間、この地方の弘法大師ゆかりの中心寺院として多くの人々が訪れています。
 創建当時は、上重原町本郷にありましたが、延宝元年(1673年)、刈谷藩主の祈願寺として、現在の弘法町弘法山(旧上重原町弘法山)に移転しました。昭和54年落慶の本堂地下には戒壇めぐりもあり、奥の院とともに、訪れる人の多くが参拝していきます。
 毎月、旧暦の21日の弘法大師の命日には、参道に300余りの店が立ち並び、県内外から多くの善男善女の参詣者で大変にぎわいます。

 右側の写真下の説明書き。

 名僧ゆかりの寺・三河三弘法
 弘法大師ゆかりの遍照院、刈谷市一ツ木町西福寺、同じく刈谷市一ツ木町密蔵院の三寺をあわせて「三河三弘法」と称しており、いずれの寺にも弘法大師が自ら彫ったといわれる像が安置されています。
 一番札所遍照院は「見返弘法」、二番札所西福寺の像は「見送弘法」、三番札所密蔵院の像は「流涕弘法」と呼ばれており、三寺とも毎月旧暦21日の命日は参拝する人でたいへんにぎわっています。 

 英文を挟んで。

弘法大師(空海)
 平安仏教の確立者で真言宗の開祖です。讃岐国に生まれ、京都にて儒教を学び、18歳で出家、仏門に入りました。その後修行を重ね、中国、長安で密教を学び、804年帰国。布教のため全国各地を巡回されその際、弘法山遍照院を開創されたと伝えられています。

 

山門を入ったところにある自動車祈祷所。

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上の写真の右側。木立ちの向こうに本堂が見える。左側の灯篭と立木の向こうに見える屋根は、案内板の絵地図によると御線香供場とのこと。

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本堂。お参りしました。左上にかかっている屋根は、御線香供場のもの。

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本堂前で右向け右すると、「売店 お茶処」というのがあった。

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中を覗くと意外にも休憩客で満席だった。店員さんと親しげに会話している様子だったので、地元の信者さんたちだろうか?

数珠や経本などの土産物をちょっとひやかして、すぐに退出した。

 

売店前を奥(上の写真で左手方向)に進んだところにあった、閻魔大王など十王の石像。

スマホカメラで光線の角度がよくないため、画質が悪いのはご容赦ください。以下同じ。

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さらにその奥(左側)には、一番青岸渡寺から三十三番華厳寺まで西国三十三所になぞらえた石仏の群れが。

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本堂裏手の敷地内は、石仏だらけである。真言宗の寺院には、ときどきこういうところがある。

以前もどこか似た雰囲気のところに行ったなと思い出そうとしたら、甚目寺観音がちょうどこんな感じだった。あっこ真言宗だったっけ?(検索したら真言宗智山派とのことだった)

www.watto.nagoya

 

「安産子育弘法大師」

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本堂の真裏あたりにある奥の院。

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弘法大師の印を結んだ座像の石像が安置されていた。心持ち向かって左方向に頭を向けていたので、これが「見返弘法」かと思ったが、検索すると別物のようだった。

本物の本尊「見返弘法」は木彫だそうだ。開帳日でないので見られなかったが。

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見返弘法の画像がないか検索したところ、はてなブロガー zoom-zoom(id:wave0131) さんの記事がヒットした。リンク失礼します。

wave2017.hatenablog.com

 

zoom-zoom さんは知立神社の記事も公開されていた。どっちもうちより詳しいじゃないか! 知立神社摂社の親母神社は「うばがみ」と読むことも書いてあった。写真もはるかに綺麗だし。凹むなぁ…

wave2017.hatenablog.com

 

気を取り直して続きを。

さらに敷地奥に進んだところにあった馬頭観音。卒塔婆に「ペット塚」の文字が見える。

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句碑。読めない。何と書いてあるんだろう?

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本堂前まで引き返した。これは自動車祈祷場の左側にある薬師堂。ガラス戸越しに薬師如来とおぼしき仏像が見えた。

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薬師堂の手前(上の写真の左側)にあった筆塚と弁天堂。鳥居が立っているが、弁天さまって神道のカテゴリーだったっけ?

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知立は古くは「池鯉鮒」と書いただけあってか、池にはコイがいっぱいいた。フナはいるかわからなかったが、とつまんない天丼を今回のオチにする。

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