聖徳太子非実在説というのがある。今の歴史教科書には「厩戸王(聖徳太子)」と記載されていることが多いそうだ。
少し前になるが、くまくまコアラ(id:kumakumakoara)さんが10月11日付でエントリーをアップされていた。言及失礼します。
その翌日の12日に NHK 総合 TV の『歴史探偵』という番組で「書き換えられる教科書」ということで、前振りとして聖徳太子にも言及があった。
聖徳太子に関する情報はwebページにはぜんぜん載っていないじゃないか。
ざっと検索したところネットでは GO *1 GQ JAPAN さんの記事がよくまとまっていたように思われたので、ブログカードを貼ります。
三行でまとめると…
- 厩戸王という人物は実在したが、聖徳太子という名は後世から贈られたものである。
- 「冠位十二階」「憲法十七条」「遣隋使」…を厩戸王が主導した証拠は見つかっておらず
(1)冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
(2)憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
(3)遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
…
などと指摘されている。 - これらを「聖徳太子の業績」としたのは天皇家の権威付けと正統性主張のため
私の三行にまとめるというのが三行になってないのはいつものこととして、うろおぼえだが『歴史探偵』でも同じようなことを言っていたはずである。
なぜこのような歴史の改変が行われたかというと、GO GQ JAPAN さんは天武天皇が主導したという説だが、私はなんとなく藤原不比等が主導したのではないかと思った。
なんでそう思ったかというと、以前に読んだ 上原和『法隆寺を歩く』(岩波新書) という本の内容を思い出したのだ。
法隆寺がなぜ最古級かつ最大級の寺院として今日まで残ったかというと、いろいろ理由はあるが不比等に始まる藤原家の手厚い保護を受けたことが、その理由の一つらしい。
手元に本があるかと思って探してみたが、見つからなかった。なんでだ!?
記憶をたどって提示できる傍証としては、法隆寺の数ある寺宝の一つである「伝橘夫人念持仏厨子」の「橘夫人」というのは、不比等の正夫人である橘(県犬養)三千代のことであるとか…
あと例によってウィキペをいろいろ斜め読みしていたら、『日本書紀』の成立と…
不比等の没年が同じ西暦720年だったのに今さらながら気づいて、心の中で「あっ」と声が出た。
言うまでもなく我々の持つ聖徳太子像は、『日本書紀』の記述に多くを頼っている。
ネット記事を見ていて『日本書紀』の編纂を命じた者が、本当に美化したかったのは聖徳太子ではなく山背大兄王だったのではないかという印象を持った。
やはりウィキペより、山背大兄王事件の部分を引用。ウィキペ中に明示はないが原典は『日本書紀』である。
家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。
すぐ次の時代に起きた乙巳の変、白村江の戦、壬申の乱…では、おびただしい百姓が傷つけられ損なわれたことを思い出すと、この美化の方向にはいろいろと感じられるものがある。けだし権力者は、己の身を守るためとあらば千万の百姓を傷つけ損なうことをためらわない存在だ。
話はズレるけど、ウィキペの漢文と読み下し文があまり一致してないな。漢文のほうでぐぐると日本書紀の原文と読み下し文を載せているサイトがヒットした! 今さらながらネットってすごいね。
栄華を極めた藤原氏だが、武功を誇るエピソードに限定すると乙巳の変以外にはあまり思い出せない。wikipedia:藤原仲麻呂の乱 にせよwikipedia:藤原純友の乱 にせよ、藤原氏にとって名誉ではあるまい。もちろん氏族の数は膨大だから、ほんの一例だが wikipedia:前九年の役 をぐぐると朝廷方の武将に藤原姓が見えたりはする。
唐突だがヨーロッパのハプスブルク家が婚姻で勢力を伸ばしたことを「戦争は他家に任せておけ、幸なるオーストリアよ汝は結婚せよ」と誇った故事を思い出した。ハプスブルク家が主体的に関与した戦争は、三十年戦争、フランス革命干渉戦争、第一次世界大戦と即座にいくつも思い出せるんだけどね。
藤原氏がそういう誇り方をしたというのは、ついぞ記憶にない。朝廷における自家の地位の権威付けに乙巳の変を利用するとなると、「敵役の蘇我氏を貶めたい」→「山背大兄王を美化したい」→「山背大兄王の父親の厩戸王も美化したい」という発想は自然に出てくるところだろう。
蘇我氏の業績は、一切合切持っていかれてしまったことだろう。
そして歴史において陰惨な事件というのは、忘れ去られることはないにせよ比較的印象に残りにくいようだ。これもほんの一例だが、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時を始めとする鎌倉幕府首脳陣が新田義貞によって全滅させられた「東勝寺合戦」というのは、言われれば「ああ、あれか」と思い出せる人は多いだろうが、国史を専攻した人以外でぱっと出てくる人はそんなに多くないんじゃないかな? そうでもない?
ということで、不比等に始まる藤原家代々の都合により美化された厩戸王、山背大兄王父子のうち、後世の日本人に強くイメージづけられたのは厩戸王のほうだったんだろうというストーリーが浮かび、材料を補強したいと思ったが前述の通りきっかけとなった『法隆寺を歩く』が出てこない。
仕方ない、Amazonマーケットプレイスあたりで買い直すかと思って検索したら、非実在説に限らず聖徳太子に関する情報は、当然ながら出るわ出るわ。学術的なものから一般の歴史愛好家向けのものまで、始末に負えないくらい膨大な数がヒットした。
「誰が聖徳太子を作ったか?」に関しても、不比等や天武はもちろん、この時代の有名人の名前はあらかた挙がっているのではなかろうか?
今さらド素人の私なんかがやることではなかったと思いつつ、Amazonマケプレ品は自分が再読して楽しむことを目的に最安値をポチした。
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*1:誤記です。失礼しました!