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しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを要求しない

竹田青嗣氏の著書に関する思い出

哲学 読書 ネタ

今回は dk4130523 (id:cj3029412)さんのエントリーに乗っからせてもらいます。

dk4130523.hatenablog.com

dk4130523 さんの思想遍歴というべき幅広い内容を扱っているのですが、その中に竹田青嗣氏についてごく簡潔に触れている部分があって、ピンポイントでそこに反応してしまいました。

「キリスト教」「ロゴス」「N個の性と自己了解」 - illegal function call in 1980s

竹田青嗣いいですよね。「あれは竹田青嗣オリジナルであって、フッサールでも現象学でもない」みたいな批判はよく目にしますが知ったことかというやつで、実感を伴ってわかりやすいのが何よりなんです。

2016/04/09 21:06

b.hatena.ne.jp

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そうしたら、即座に新たなエントリーを起こして応答いただきました。感謝です。

dk4130523.hatenablog.com

こちらのエントリーの中で、特に私の感覚にフィットしたのが、このくだりでした。

90年代半ば過ぎからこのかた竹田はほとんど同じことしかいわなくなる。ように思う。それでも、初期作品の手探りは、西研の一般紙(例、毎日新聞)デビューのころと並んで、とてもスリリング。 

私が手に取ったのは竹田氏の著作のうち、ごく一部ですが、まさにこの90年代に、ちくま学芸文庫などから一般向けの著作が次々と刊行されました。『現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)』(初版1992年)、『自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)』(初版1993年)、根本経典ともいうべき『現象学入門 (NHKブックス)』は少し古くて1989年初版。

実はこれらは、だいたい同じことが書いてある。ただし(つか多分それゆえに)門外漢にとっても、馴染みやすく読みやすかった。現象学とは別系統であるはずの『ニーチェ入門 (ちくま新書)』でさえ、竹田節というか竹田現象学の風味を色濃く感じた。

いっぽう、ちくま学芸文庫に入ったのは少し遅れるが実質的処女作とされる『意味とエロス―欲望論の現象学』は、とにかく難解だったという記憶がある。完読できなかったんじゃないかな? Amazonで確認したら紙の本は版元品切れで Kindle 版のみの販売になっていた。これだけをもって「難解と感じたのは私だけでなかったんだろう」と推測するのは、ムチャかしら?

dk4130523 さんは、こうも書かれている。

俺の話はさておき、在日韓国人という出自を含めて、若いころの竹田は、何かを掴んでしまったのだろう。その肩こりのようなものをほぐすのに、現象学が彼の場合にはたまたまフィットしたのだという感じ方は、なんとなく、わかる気がする。 

 この「何かを掴んでしまった」というのが、『意味とエロス』と『現象学』の間の期間なのだろうなと思ったのだ。また、もし私にもっと力があったなら、『意味とエロス』こそ、「何かを掴」む前の苦闘の過程を読み取ることができたかもしれないという意味で、価値のある書だったのかも知れないとも思った。

それでも、弊ブログにアップした「もう一人の自分自身の正体は誰か?」という連載の元ネタは、竹田氏の著作に多くを依存している。自分自身が存在するということに対する不安、違和感を、私なりに言語化しようとした試みである。ただしその試みの決着は、同連載中の「間奏曲〔インテルメッツォ〕」で述べた通り、現象学ではなく、やはり90年代当時、茂木健一郎氏や池谷裕二氏が一般にも知名度を獲得して小ブームのようになった脳科学の用語を借用することによって、

  1. 我々は、クオリア入射と同時にその短期記憶を作り、クオリアと短期記憶を総合したものを「世界」として認識する。
  2. 意識のクオリアも存在する。意識のクオリアの短期記憶も作成される。我々は、意識のクオリアと意識のクオリアの短期記憶を総合したものを「意識」として認識する。
  3. 我々が自分自身の意識を認識しようとしたとき、意識のクオリアの短期記憶だけが認識される。ここに、認識される自分自身が自分自身でない、もう一人の自分自身であるような錯覚が生じる。すなわちもう一人の自分自身の正体は、意識のクオリアの短期記憶である。 

弊エントリ「もう一人の自分自身の正体は誰か?(間奏曲〔インテルメッツォ〕)」より再掲

と、三行とは言わないまでも文庫本半ページほどにまとめられてしまうものに過ぎなかったのだが。

さらに言えば、脳科学に限らず、自然科学などの知見を思想に取り入れることは、現象学の立場からすると「カッコに入れる」という言い方をするのだそうだが、真っ先に棚上げにしなければならないことなのだそうだ。

いやしかしそれでも、考えるきっかけを与えてくれ、また考え方のモデルケースとなるお手本を示してくれた竹田氏の著作に対する感謝は、言葉では尽くせない。スケールは小さくても、他の誰でもない自分自身の内部にあるもやもやを、自分自身の手によって固定化し言語化しようとする過程そのものに意味があるのだ。

で、それからはや20年近くが経過し、dk4130523 さんのエントリーを契機に竹田氏の著作の内容そのものをいろいろ思い出そうとしたのだが…

すっかり忘れてる! ほとんど覚えてね~!(TДT;

今回のエントリーの主題は、実はこの一行なのです。

あんなに何冊も読んだのに、あんなに刺激を受けたはずなのに。いやそれでも、どこか血肉となって残っている部分があるんじゃないかな。本棚を探したら何冊か出てきたから、ちょっくらページをめくって記憶に残っている箇所がないか確認しているところです。ああ情けなや情けなや…

アイキャッチ画像にするために、一冊くらい書影を貼ろう。この『自分を知るための哲学入門』の劈頭に出てくる「哲学〝平らげ〟研究会」~哲学の古典的名著と呼ばれる書物を、とにかく一通り〝平らげ〟てしまおうという読書サークル。西研氏も創立メンバー~というのは、インパクト強くてさすがに覚えていた。 

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)