一遍は浄土宗西山派の門から出た人だが、その教義の特徴は「念仏は一回だけでもよい」とする絶対他力の立場で、賦算〔ふさん〕と言って「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と印刷した大人の人差指大のお札を全国で配って回った(p25)という。
その一遍が熊野詣での道中で、たまたま出会った僧に賦算しようとしたところ「いま一念の信心おこり侍らず、うけば妄語なるべし」と断られた(p46)という。押し問答の末、強引に札を授けたが、「こんな念仏でいいのか?」という疑念が生じざるを得ない。その後、一遍が熊野本宮に参籠すると、次のような託宣が下ったという。ちなみに本地垂迹説によると、熊野本宮の本地は阿弥陀仏だそうだ。
融通念仏を勧める聖よ、何と誤ったやり方で念仏を勧めておられるのか。御房の勧めによって一切衆生がはじめて往生できることになったのではない。阿弥陀仏の遠い昔の願が成就し、それによると一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と称することでかなっているのである。だから、南無阿弥陀仏を信じようが信じまいが、その衆生が浄であれ、不浄であっても、そのようなことを一切顧慮せずに念仏札を配るがよい。
(p47)
著者によると、今日まで続く一遍の念仏札に「決定往生」が入ったのは、この熊野の事件のあとではなかろうか、とのことである。信じようが信じまいが、南無阿弥陀仏と言えば即往生なのだそうだ。自分で唱えなくても、名号を聞いても、見るだけでもよいのだそうだ(p50)。
そうすると、何のために南無阿弥陀仏と称名念仏するのだろうか、という疑問が生じる。これは著者が言っていることではなく、私の考えなのだが、念仏しないではいられないから念仏するのではないだろうか?五木寛之氏は『他力』で、阪神大震災やオウム事件、それに神戸の児童殺傷事件に、繰り返し言及する。圧倒的な不条理と、それに対するどうしようもない自分の無力を悟ったとき、我々は絶対他力というものに思いを巡らせるのではないだろうか。
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