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田上太秀「『涅槃経』を読む ブッダ臨終の説法」(講談社学術文庫)

『涅槃経』を読む ブッダ臨終の説法 (講談社学術文庫)

『涅槃経』を読む ブッダ臨終の説法 (講談社学術文庫)

ブッダの最期を描く「涅槃経」には二種類ある。比較的古い時代にパーリ語で書かれたいわゆる『原始涅槃経』と、紀元後にサンスクリットで書かれたいわゆる『大乗涅槃経』である。
『原始涅槃経』の現代語訳は『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)』というタイトルで出版されており入手しやすいので既に読んだ。読みやすかった。
『大乗涅槃経』の方も読んでみたいと思っているのだが、こちらは漢訳で36巻ないし40巻の大部。現代語訳は『ブッダ臨終の説法―完訳 大般涅槃経』〈1〉〜〈4〉が出ているが、一冊6000円以上もするため、おいそれとは手が出ない。そうすると、ついつい手が伸びるのは一般向け概説書の類だ。いつものパターンである。
本書の著者は『完訳』の現代語訳者である。『完訳』からいくつかの話題を取り出して紹介してくれている。
最初にかなりのページが割かれるのが、霊魂の実在を主張する論者とブッダとの議論である。仏教では、霊魂という実体が実在するという立場をとらない。意識は、肉体を構成する四要素(地水火風)と五蘊(色受想行識)および感覚器官(眼耳鼻舌身意)と対象(色声香味触法)の相互作用によって生起するとの立場を取る。近現代風に言うなら、霊魂が元素や細菌やホルモンのような実体を持った何かであると仮説する学派と、意識には実体はなくある系が一定の複雑さを備えたときに生起する何ものかであると仮説する学派の議論のようなものであろうか?(最近の私の一つ覚えを使わせてもらえば「還元主義」と「複雑系」ってことね)
読者は当然ブッダの側に肩入れすることを予想して書かれているのであろうが、公平を心がけて読むと、ブッダに対立する論者も、なかなかに侮りがたい主張をしているようにも思われる。
で、なぜこのような議論を行うかというと、これは「一切衆生悉有仏性」すなわち「誰もが仏になれる可能性を持つ」という『大乗涅槃経』の中心テーマを導くためのようである。意識には実体がない。従って意識には何にでもなれる可能性があるというわけだ。
本書P131には、「迷っているときを衆生と言い、悟ったときをブッダと言うのである」という一文が登場する。
偶然、直前に読んだ『華厳の思想 (講談社学術文庫)』にも、同じ意味のことを述べた箇所があった。「仏と衆生は同じものだ。仏が迷うと衆生になる、衆生が悟ると仏になると考えるわけである」(p91)
他にも「山川草木に仏性はあるか?」とか「一闡提(いっせんだい=信仰を持たない者)にも仏性はあるか?」とか「女人成仏」とか、さまざまなテーマが論じられる。
本書の著者は駒沢大の先生だけに、『大乗涅槃経』が道元とりわけ『正法眼蔵』に与えた影響に言及する箇所がしばしばある。しかし『大乗涅槃経』が影響を与えたのは道元だけではなく、例えば親鸞の『教行信証』にも『大乗涅槃経』からのまとまった量の引用があるのだが、そちらへの言及はなかった。
やっぱりそのうちいつかは『完訳』に当たってみたいな…いつになるかはわからないけど…
華厳の思想 (講談社学術文庫)

華厳の思想 (講談社学術文庫)