しいたげられた🍄しいたけ

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【創作】転生したら親鸞だった?(18)第5景【鎌倉編】ボクの無双(2/2)

暫定目次 各「その1」のみ クリックで詳細表示

(1) 第1景【現代編】猪飼家のマンションにて(1/6)

(7) 第2景【鎌倉編】車借・捨六(1/6)

(13) 第3景【鎌倉編】馬借・欠七(1/2)

(15) 第4景【現代編】個室病棟にて(1/2)

(17) 第5景【鎌倉編】ボクの無双(1/2)

(19) 第6景【鎌倉編】被差別集落(1/4)

(23) 第7景【鎌倉編】霊感商法(その1)

新着お目汚しを避けるため、日付をさかのぼって公開しています。体裁にこだわらず頭の中にあるものをダンブしている、という意味です。 あとからどんどん手を入れる予定です。前回はこちら。

watto.hatenablog.com

 

(主人公「ボク」による語り)

要点から先に書こう。この時代の人たちは「物語」に飢えていたのだ!

新聞もTVもラジオもない。もちろんネットもない。

都からやってきたお坊さん (ボクのことだ!) が、夜な夜な聞いたことのない話をしてくれるという噂は、またたくまに近隣の村々に伝わり、紫雲寺の本堂は連夜、押すな押すなの大盛況となった。

 

紫雲寺は、本瓦葺きの屋根をもつ堂々たる伽藍だった。高田の村で瓦屋根を持つ建物は、郡衙とこのお寺だけだった。屋根の話ばっかりしてるな。

郡司からボクの身柄を託された紫雲寺の西明住職は、50代くらいのおだやかそうな容貌の男性だったが、本格的に仏教の修行をしたことのある人のようだった。

記憶がないことは取り次ぎの人に言ってあったはずなのに、初対面のときまず住職がボクに質問したのは、都の仏教界の動向だった。

ボクが満足に答えられないことを知ったとき、住職はあからさまに失望の表情を見せた。

それでも食事や着替え、カミソリなど生活必需品は、お寺で提供してくれた。落とし紙にする反故紙までが、ふんだんにあった。ああ、これで生きていけると思った。

そう言えば映画『侍タイムスリッパー』の主人公・高坂新左衛門も、お寺に転がり込んだではないか!

カミソリは、さっそくヒゲをあたるのに使わせてもらった。だが髪の毛は、そのままにした。丸坊主になるのは、やはり抵抗があったので。「(13)」に書いた通り「僧でもない、俗人でもない、禿〔かむろ〕」ということで押し通すことにした。

 

紫雲寺では最初、寺男さんたちに交じって下働きを命じられた。掃き掃除、拭き掃除はともかく、畑仕事はまったく要領がわからなかったので、他の寺男さんたちからさんざん怒鳴られた。

初日の晩から、農作業を終えた近所のお百姓さんたちが寺にやってきた。目的は、ボクを見ることだったらしい。前述の通り、この時代の農村は、娯楽に乏しかったのだ。

くどいけど都の話はできない。代わりに、知っている仏教説話をいくつか話してみた。

仏典には、難解な仏教哲学も書いてあるが、奇想天外な説話だってたくさんあるのだ。お釈迦さまも仏弟子たちも、超能力を使いまくるし。

それが大ウケした。

次の晩、次の次の晩と、寺にやって来る近隣の住人の数は、どんどん増えた。

ありがたいことに、彼らのほとんどはお百姓さんだ。「端数ですけど」「形の悪いものですけど」と断りながら、穀物や野菜を持ってきてくれた。半端だろうが形が悪かろうが、口に入ればかまわない。住職以下、お寺のスタッフの食材になった。

これでボクは下働きから解放され、昼間はわりと自由にふるまうことが許されるようになった。

渡辺大門『流罪の日本史』(ちくま新書) P24によると、律令時代の流人が使役されるときには頭巾をかぶせられたり鉄製または木製の首枷をつけられたりしたというが、幸いボクはそういう目には遭わなかった。もちろん監視されていただろうが、配流地では比較的フリーダムというのは共通事情だったらしい。権力者にすれば、都から追放さえできればよかったようだ。

 

問題は話のタネが続くかどうかだが、ボクには秘書インコがいる。それに話す内容は、仏教説話に限定する必要はない。落語ネタでも講談ネタでも、いや、サキだってO・ヘンリーだって星新一だって、何でもアリだ。なんならガンダムやエヴァンゲリオンだっていい。そう考えると無尽蔵ではないか!

 

ボクは作家だから物語を語ったけど、もし音楽や美術をやっている人がこの時代に転生したら、やはり無双できたのではないだろうか? 映画『イエスタデイ』は未見だがビートルズのいない世界に転生したシンガーソングライターの物語だそうだ。ミュージシャンがここ来たら、何か手製の楽器を作ってメロディを聞かせれば、そして弾き語りで歌を歌ったら、絶対に話題になると思う。絵師さんが透視図法を駆使して絵を描いたら、いや現代風の萌え絵を描いても、たいへんな評判を呼ぶんじゃなかろうか。

 

ただ、聴衆のノリは21世紀とは明らかに違うことにも、すぐに気づいた。

この時代の人たちは、やはり純朴だ。物語に飽食している21世紀人とは違うのだ。

例えば前回の話のラストの「これ、どうすんだ」は、オチのつもりでボクがつけ加えたものだ。原典には存在しない。

そうしたら話を終えたあとで、何人もの人から「あの消えない灯明は、どうすればいいんでしょう?」と真顔で質問された。

「お釈迦さま自ら超能力で後始末しましたから、安心してください」と何回も説明する必要があった。

(この項つづく)

追記:

続きです。

watto.hatenablog.com

イエスタデイ (字幕版)

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