しいたげられたしいたけ

空気を読まない。他人に空気を読むことを要求しない

街の英会話スクールでも少しなら異文化に触れることは可能じゃないかという話

いつもの悪い癖で、書こうと書こうと思いながら、なかなか手をつけられなかった。今回のきっかけは くたびれはてこ@kutabirehateko さんの、このツイートである。

このツイートに、問わず語りで「街の英会話スクールに通う程度でも異文化に触れる体験はできますよ」に始まるいくつかレスをつけた。それに大幅に加筆してエントリーに仕立ててみた。「はてな」には外国人と結婚して海外で暮らしているブロガーさんが何人もいるから、そういう人たちから見たら鼻で笑われるに違いないが、誰しもそういう体験ができるわけではないということで。

スポンサーリンク

 

今回は気まぐれでアフォリズム風に。 

 

50の手習いで、今でも英会話スクールには通っている。ただし今通っているところは大手で、おそらく講師に対する内部レクチャーがしっかりしているからだろう、教科書からの逸脱が少なくあまり怪しい経験はしていない。

 

若い頃から英会話スクールに通っている。いろんなしがらみで、かつて通っていたところは、立ち上げたばかりであったり、オーナーの個人経営に近いところだったり、今にして思えば怪しいところが多かった。その方が面白かったけど。

 

講師とある程度親しくなると、ギクッとするような本音がダダ漏れで聞けるようになる。相手も人間だから、すぐに日本社会の実態は見抜けるわけで、TV番組のような幻想なんか持っていてくれない。

 

日本社会の特徴と言われる「タテマエとホンネ」「同調圧力」「伝統への固執」「組織への帰属性の強さ」「自国の評価を気にする傾向」等々は、実はどこの国にもある。だからこそすぐわかるのだ。

 

例えばアメリカは代表的な「個人主義」の国と言われる。だがアメリカ人は「個人主義者」と呼ばれることに抵抗を感じるということは、どの程度知られているだろうか?(これはスクールではなくNHK第2の英会話番組から得た知識

 

講師から「日本人はバカにされているんだよ」とはっきり言われたことがある。“I know.” と返すことしかできなかった。

 

講師に「どうやってここの職を見つけたのか?」と尋ねたことがある。「簡単だ。“Japan Times” の求人広告を見て応募しただけだ」との答えだった。

 

講師の間では「日本の英会話スクールでは、黒人やカラードの講師は “商品価値” が低い」というのは、公知の情報である。日本人には黒人やカラードに対する差別意識があり、そして日本にはそのような差別意識を自ら抑制しようという文化がないということまで、海外に知れ渡っているということだ。

 

ほぼ個人経営のスクールの経営者(日本人)から、「うちの講師にはみんな日本人の彼女がいるんだよ」と聞いたことがある。そこの講師は全員が白人男性だった。

 

差別意識はどこの国にもあるだろう。一度だけだが、いつもの講師が都合が悪いとのことでやって来たピンチヒッターの講師が、一コマまるまるドイツ人の悪口に費やしたのに驚いたことがある。悪口と言っても “I love you.” が “Ich liebe dich”(イッヒ・リーベ・ディッヒ)というゴツゴツした音になるといった他愛もないものばかりだったが、それでも講師がドイツ人に対して悪意を抱いているのは明らかだった。

 

差別意識のような好ましくない感情をコントロールしようとすることを、向こうでは “civilization” と呼ぶらしい。「文明化」を、現在進行形のものとして捉えているのだ。日本語では、「文化」と「文明」の違いが試験問題にこそなれ、「文明化」という言葉がそれほど一般的であるとは思えない。情けないけど「明治維新のことか? うちの国ではとっくに成しとげている」と誤解されるのがせいぜいのような気がする。

 

ちなみに「公民権運動」は “Civil Rights Movement”  である。“civilization” と関係があるかは、わからない。

 

他愛もない飲み会の参加募集で、参加費に男女で差をつけたところ、講師からすかさず “Discrimination!” と指摘を受けたことがある。「男女で賃金差があるから」と理由を言ったら火に油を注いだであろうが、 確かそこまでは言わなかった(よけい悪い

 

個人差があるとはいえ “civilization” のようなものを、彼らの多くはどのように身につけただろう? 想像だが、彼らの国での学校教育が、ディスカッション主体であることと関係があるように思う。

 

ネイティブ講師と議論になったら、1対1、あるいは同人数であれば、経験的に日本人側が必ず負ける。英語だということを差し引いても、相手は小学校から大学、大学院までずっとディスカッション主体の教育を受けてきたのだから。

 

講師からややデリケートな質問を受けたことがある。「沖縄というのは、日本では何か特殊な場所なのか?」のような。正直少し返答に困ったが、「沖縄はもともと独立した王国だったが、近代に至って本土と併合された」のような説明をしてみた。これだけの説明でも、相手は察したような表情をしてくれた。

 

実はこのとき「併合」に相当する英単語が思いつかなかった。いろいろ近そうな単語を並べたら “Annexed!” と教えてくれた。“Texas Annexation”(テキサス併合)のように使う。これで私は “annex” という単語を忘れることはないだろう。

 

「テキサス併合」というのも、調べてみるとえげつない歴史的事件である。私には詳述する力量はないが、断片的な逸話のみ示すと “Remember Pearl Harbor.” というのは実はテキサス併合に先立つ “Remember the Alamo.” (アラモ砦を忘れるな)あるいは少し後の米西戦争時のスローガン “Remember the Maine” (メイン号を忘れるな)のもじりである。アラモはともかくメイン号事件はかなり陰謀臭い。

 

このあたりの事情に関して、日本人より当事国出身者の方が、当然ながらはるかに詳しい。とりわけ米国における中南米出身者の人口比がどんどん増えている現代において、これらの歴史的事件を論じるにあたっては、米国擁護の立場に立つにせよ米国批判の立場に立つにせよ、彼らは常に反対者の存在を認識し、反論を想定してディスカッションのトレーニングを重ねている。

 

だから当然、ネットでよく見かける「どっちもどっち」「おまえの国だってやっているだろう」という論法は通用しない。論点は相殺によって消滅しないのだ。もしそうした論法を強弁するなら、「こいつは理屈が通じない奴だ」と思われるだけである。そしてこちらが固執している間に、相手は新たな論点、論拠を次々と繰り出してくることだろう。

 

ただし、米欧流のディスカッションを主体とする教育が、日本の教育現場でもただちに採用できるかというと、心もとないように思われる。日本の教室では、だいたいどこでも「質問ありますか」と言うと、水を打ったようにしんとしてしまう。本当に質問がある場合は、あとから訊きに行ったりする。このような現象は、国境をどちらの方向に越えても見当たらない日本独特の現象である。

 

私が何より心配するのは、ディスカッションのトレーニングを(多分)十分に経ないまま国家の経営に当たるエスタブリッシュメントたちが、論理的とは言えない政策決定を重ねているのではないかという危惧である。

  • 権力は暴走するものだから、何重にもタガをはめなければならない
  • 経済の効率化を求めて余裕を極端に切り詰めたら、その結果大事故を起こしてかえって損をする
  • 教育や基礎研究への投資は、即効性はないが将来のことを考えたら決して惜しんではならない

といった命題は、もし議論により否定しようとしたら、反論により容易に打ち破られることだろう。しかし少なくとも近年におけるこの国の諸政策は、きっぱりとそれらを否定する方向ばかりに向かっているのではなかろうか?