何の変哲もない近所の神社へ、勝手にやっているお百度参りのシリーズであるが、今回は3回である。30回ではなく、13回ではなく、たったの3回。先に理由を書くと、夕立の直撃をくらったからだ。半年もやっているので、こういうこともあるだろうと思いつつ、申し訳ない。ごめんなさい(誰に謝る?
神社はコンビニより多いと言われるだけあって、徒歩圏にある神社は、まだ尽きていない。拙宅から歩くと、建物とも装置ともつかない謎の構造物のところに、いくつかの石仏と道標があって…
その向こうに神社の杜が見える。以前から、今度はこのお地蔵さんを百度石に見立てて、こちらにお参りしようと思っていた。
ここも神明社である。うちの近所は、伊勢神宮系の神明社がやたらと多いことは、過去に何度か述べた。区別するためには地名を冠して「大脇神明社〔おおわきしんめいしゃ〕」などと呼ぶ。
上の写真の、鳥居と門柱の右手の石碑。この石灯篭が由緒あるものらしい。
弊ブログ勝手に恒例の文字起こし。
この常夜灯は伊勢皇太神宮と秋葉神社のために寛政年代に大脇公会堂の敷地内に建立されたが 昭和十九年の三河地震のとき倒れ破損したのを機にこの地に移された。以後五十年を経過し 永久保存を念じて保護工事を奉納する。
平成六年度厄年一同
境内。左から本社の拝殿、摂社末社、それにこの神社の祭礼である「大脇梯子獅子」の由来を期した石碑である。
石碑からちょい接写。
文字起こし。大脇梯子獅子というのは、毎年10月にある地元ではわりと大掛かりな祭礼だ。ビル工事のような高い足場を組んで、その上でシシ舞いが踊るのである。
大脇の梯子獅子の由来
大脇の端御獅子は口伝によれば約四百年前の永禄・天正期に名古屋大秋村 今の名古屋市中村区大秋町から伝授されたという 演技の中で舞われる神楽獅子は七百年前の建治年間に神前用祭事として半田地方からもたらされた 文久年間には一本竹・吊し竹が加えられ当代随一と称賛されるにいたった 宝暦・明治期には廃滅同様になったが先人の努力がこれを継承させてきた 昭和四十二年には愛知県民俗無形文化財に指定された
偉大なる文化遺産の永久保存を冀いいしぶみを建てその由来を誌す
摂社末社。大小八社もある。
本社拝殿。
まずは本社拝殿からお参りし、ご挨拶ということで摂社末社にも一社ずつお参りした。
手水場。
水の吹き出し口がシシ舞いになっている。
手水場前から拝殿、摂社末社、石碑を望む。大掛かりな祭礼をやるため、敷地がかなり広いのだ。
さらに敷地の裏手には稲荷社がある。同じ敷地内とはいえ独立した神社なのか、摂社末社の一つに数えるべきなのかは、よくわからない。
スマホの Google マップで位置を示す。まずはこれがお地蔵さんの場所。
トリミングして枠線を加える加工をしています。以下同じ。
これが本社拝殿前。
そして稲荷社前。
マップに物差しを当てると、お地蔵さんから稲荷社まで150mというところで、距離はそんなにない。
しかしこの周辺は、インターチェンジが近くにあるのに広い道が少ないせいか、細い道なのに交通量が多くて危なっかしい。だからお百度の経路は、むやみに伸ばすことができないのだ。
スポンサーリンク
一回目のお参りをしているうちから、雷がゴロゴロ言い始めていたので、「やばいな」とは思っていた。
摂社末社には毎回お参りするか、それとも以前のように5回目、10回目のキリ番だけにするか、どうしようなどと考えているうちに、大粒の雨が落ちてきた。
私の解像度の悪いスマホカメラにも、雨脚が写っているくらいだから、相当なものだったと思う。
木陰で雨宿りをしながら、よくある夕立っぽいからしばらくしたら止むかなと期待していたが、足場にみるみる水たまりが広がりだしたので、「こりゃダメだ」と思った。
夕立を 集めて早し どこの川?
全身ずぶ濡れになって帰宅した。予想通り雷雲はすぐに去り夕方には青空が広がったが、なぜか青空の下でも雨粒はぽつぽつ落ち続けるというヘンな天気だったため、どのみち無理はできなかったと思う。
たった3回でも回数は回数なのでカウントして、続きは次回とさせてもらおう。
スポンサーリンク