今回のエントリーの結論は、こちらの記事の…
ブックマークコメント欄に投稿した拙ブコメ
YMCA作詞者「曲使うな」 トランプ氏選挙集会で:時事ドットコム
なんでトランプが大統領選キャンペーンにY.M.C.A.を使うのか常々不思議なのだ。あれは隠喩を用いているとはいえガチLGBTのプロテストソングでありマイノリティのための歌なのに。
2020/10/30 22:36
に尽きており、それ以上なにか追加の論考とかはありません。初めにお断りしておきます。
2週間ほど前に、よんばば(id:yonnbaba)さんのこんな印象的なエントリーを拝読した。言及失礼します。『緋の河』読まなくちゃと思いながら、まだ手に取っていない。こうして読むべき本ばかりがどんどん増えていく。
hikikomoriobaba.hatenadiary.com
思えばLGBTに対する認識は、私が生きている間に一変してしまったものの一つだ。世の中の変化というものは、驚くほど速い。古いままの認識にしがみついている人も少なくないとは言え。
LGBTに対しては、私個人としても慚愧の念から逃れられない。カルーセル麻紀 氏や、あるいは おすぎ 氏と ピーコ 氏、故人となられたが 東郷健 氏といった人たちに対し、かつて私は「イロモノ」といった先入観を抱いていた。彼らに対する認識はいまや180度変わり、最上級の尊敬の念を抱かずにはおれない。時代はただ変わるのではない。時代が変わるためには、それこそ「血を吐くような」辛酸を舐めたおびただしい人々が存在したはずである。
前述の通り『緋の河』は未読だが『ピーコ伝 (文春文庫PLUS)』という本を読んだことがある。
これも よんばば さんのエントリーに投入した拙ブコメの繰り返しになるが、同書にはファッション評論家として成功した ピーコ 氏が、無名の頃に守ってくれた先輩に恩返しをしようとしたら「今度はあんたが若い人を助ける番だよ」と断られたという話が載っていた。
明示的に書かれていたわけではないが、その先輩もおそらくは性的マイノリティだったことが想像される。
よくわからないのが レイザーラモンHG 氏である。彼は純然たる芸として「ゲイ」を売っているのだろうか?(すみません、ダジャレの意図はありませんでした
同氏のキャラに関しては、ちょっと検索した限りではあくまで虚構のようだが、思い返すと カルーセル麻紀 氏もタレント、コメディアンとして世に出たのだった。いじめられっ子がひょうきんを装うことがよくあるように、マイノリティがおふざけ、おちゃらけを前面に出さざるを得ない状況が引き続いているのだとしたら、またしても我々の住む現代社会の暗い深淵を垣間見たような気分にさせられるのだが…
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一旦話はがらりと変わる。東雲長閑(id:shinonomen)さんが昨日付け(10/30)でこの記事を公開されていた。亡くなった作曲家の 筒美京平 氏への追悼記事である。言及失礼します。
批判のようなブログタイトルだが、筒美 氏の才能を絶賛する内容と読んだ。だけどケチをつけるようなことを言ってすみませんが、明るいメロディに悲劇的な歌詞を乗せるといった、曲と詞にわざとギャップを持たせるというのは、感動を高めるための常套手段ではないかと思う。
東雲 さんのエントリーに登場する歌手から例を探すと、キャンディーズ の最後の曲である『微笑がえし』(作曲:穂口雄右 氏)は、一点の曇りもないメジャーの曲に乗せた歌詞を読むと破局を迎え同棲を解消するカップルの物語でしたよね(と書いてから確認のためウィキペを見たら「なおト長調の曲であるが、最後だけホ短調になっている」と書いてあった。音楽疎いんですすみません
あっ、本当だ! えっ、そこ!?
他に曲と詞にギャップのある曲というと、たくさんありそうだが洋楽で思い浮かんだのが、まず『Green Green』、ついで 西城秀樹 氏ではなくオリジナルの Village People のほうの『Y.M.C.A.』だった。
ヴィレッジ・ピープル の『Y.M.C.A.』については、以前に短いエントリーを書いたことがある。この時も「ヴィレッジ・ピープル はおちゃらけだが、彼らは死ぬ気でおちゃらけていたんだと思うぞ。」と結んだのだった。
そんなでこのたびの米国大統領選に関する報道が流れるたび、トランプ 氏が大統領選挙キャンペーンに『Y.M.C.A.』を使っていることに驚き、違和感を感じないではいられなかった。トランプ 氏はマイノリティを迫害する側…というのがもし言い過ぎだったとしても、マジョリティの側を代表する形で最高権力の座についたのではなかったのか?
『Y.M.C.A.』の歌詞は暗示、暗喩に満ちており、非ネイティブで異なる文化の人間が理解するのは決して易しくないが(そもそも"YMCA"= Young Men's Christian Association ってどんなところなの? とか)、ネイティブでかつ同じ文化であれば、その背景にあるものが腑に落ちるには非ネイティブ・異文化の人間ほど困難なはずはないと想像するのだけど、どんなものだろうか?
私には問題提起をするだけで、これ以上論じることができないのが残念である。
時事ドットコムの記事についた他の方のブコメも読ませてもらっているが、深く考えないでノリだけでやっているのではという意見が見られた。そうかも知れない。そういうことって、あるのだろうか?
年寄りなんで古い話しかできないが、辛うじてこんなことを思い出した。
はしだのりひことクライマックス『花嫁』という1971年のヒット曲がある。明るく美しいメロディである。
今を去ることン十年前の話になるが、同級生や同期の結婚式の2次会で、この歌が歌われることがよくあった。
「これ、駆け落ちの歌なんだよね」と言って受けをとるのが、当時の私の持ちネタであった。ドン引きさせていただけという説もある。
歌詞を読んでみてください。特に2番。
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