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一宮市のツツジの名所・浅野公園

生垣や路側帯の植え込みのツツジが、どこも満開だ。春先には「この並木はサクラだったのか!」と改めて気づくことが多いが、今どきは「この植え込みはツツジだったのか」となる。緑の頃には注意をはらわないものだ。

そんなでツツジを見たいと思えばどこでも見れるのだが、「ツツジの名所」を謳っている場所がきっとどっかにあるだろうなと思って検索したら、実家から30分とちょっとのところにヒットした!

www.city.ichinomiya.aichi.jp

一部、引用。

 当公園は、戦国時代の武将・浅野長政公の屋敷跡地を整備したもので、周囲は濠をめぐらし、築山、池、庭石、樹木、藤棚、生垣などを配した庭園式公園です。平成29年には開園100周年という大きな節目を迎えます。
 また、当公園で毎年4月下旬ごろ開催されている「つつじ祭」では、赤・白・ピンクの色とりどりのツツジ1000株以上を見ることができ、開催中、さまざま催しが行われています。

「つつじ祭」というのは、他のサイトによれば去年、今年と中止だそうだった。こういう状況下では仕方あるまい。だが花がなくなるわけではなかろうと、例のごとく高齢の身内の無聊を慰めるため車を出すことにした。

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カーナビに表示された経路で移動すると、公園敷地の南側のやや広い通りに面した区画に、無料駐車場があった。背後に見えている鯉のぼりは、無関係なよそのお宅である。

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なんで「やや広い」と断るかというと、ここに来るのに国道22号線(名岐バイパス)というやたらと広くて都市高速と2階建てにまでなっている道を通るからである。ここと比べるとたいていの道は狭く見える。どうでもいい情報ですねすみません。

しかし無料駐車場があるというほうは、重要情報だと思うので。

 

駐車場から公園の正面入り口までは、住宅地をほんの1区画歩く。

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門標。上の写真の右手側。

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左手側。公園敷地は掘割で囲まれていた。

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そう言えば武田信玄の邸宅は「躑躅ヶ崎館」〔つつじがさきやかた〕と言うんだった。現在は武田神社の境内になっていて、6年前に一度行ったことがある。

www.watto.nagoya

 

さすがに武田神社より敷地は狭かったが、安芸広島43万石の藩祖浅野長政の屋敷跡というだけあって、堂々たるものだった。

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弊ブログ勝手に恒例文字起こし。改行位置、変更しています。ルビ・英文ある場合は省略しています。以下同じ。

史跡 浅野公園
 当地は尾張浅野氏発祥の地であり、戦国時代、浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられている。長勝の養女が木下家定の妹の袮々であり、後に木下藤吉郎に嫁す。夫秀吉の天下統一をよく助け、自らも北政所として女性最高の地位につく。
 袮々の義弟浅野長政も秀吉の五奉行の一人となり、浅野氏繁栄の基礎を築いた。忠臣藏で有名な播州赤穂の浅野氏はその支流である。
 一九四七(大正六)年、地元が中心となって浅野史跡顕彰会が組織され、公園として保存される事となった。一九五〇(昭和二五)年からは、一宮市によって管理されている。広さ約九二〇〇平方メートル、小山を造り、堀や池を深くし、ヒトツバタコなど珍しい植物やツツジが植えられ、また一九八一(昭和五十六)年には、桑田忠親氏の筆による袮々の歌碑も建てられている。
 平成六年十月 一宮市観光協会

 

上掲の説明書きから少し歩を進めた同じ側に、公園のマップがあった。

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正面を突きあたったところに、最初の役物があった。

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 ①馬蹄石(ばていせき)

山内一豊が自宅岩倉城へ急用で帰る途中浅野家に立寄った時の名馬の蹄跡と伝えられている(妻の内助の功により駿馬を買った話は有名である)

  一宮ロータリークラブ
 ロータリー財団100周年記念

 

公園の奥に進入するには、左に折れる必要がある。

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「袮々」がここでは「寧々」になっている。細かいことはどうでもいいですねすみません。

太閤千代シダレザクラ
 バラ科サクラ属
この2本のシダレザクラは京都醍醐寺において豊臣秀吉と寧々が花見の宴で愛でたと伝えられる桜の母樹から、バイオテクノロジーによって育生されたクローン桜です。
 寧々にゆかりのある浅野公園の開園100周年を記念して、醍醐寺の寛仁深い計らいにより、桜苗を授かることができ、市民に親しまれる公園となるように願って植樹されました。
 平成30年3月

 クローンというのはもともと「挿し木」という意味じゃなかったかと思うのだが、たぶん白ヒゲの博士がフラスコとビーカーで何か難しいことをやったのだろう。

また細かいことに突っ込んどるやんけ。

 

藤棚。リュックがいっぱい写っているのは、小学生が課外活動に来ていたからである。座っているおっさんは、どっかのおっさんである。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20210422/20210422115230.jpg

 

藤棚の内側からフジの房と時計台を見上げる。

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フジはハチだかアブだかを呼び寄せるのが難点である。ブンブンとうるさかった。

小学生くらいのころツツジの花のミツを吸うというのを、誰もが一度はやったことありそうだが、昆虫はツツジよりフジを好むのだろうか? ツツジの茂みでは、そんなことはなかった。

 

藤棚の先方に道標があった。

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この背後が広場になっていて、2クラスほどの小学生相手に引率の先生がなにやら説明していた。

「花ちぎって吸わない!」とも言ってるかな?

 

公園のいちばん奥まったところにある「記念碑山」。マップによると、このあたりに屋敷があったそうだ。

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今回はまだ花を接写してなかったから、手前の紅白のツツジを接写してみよう。

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記念碑山を少し右側に回り込んだところ。「淺野長勲侯手植杉」と刻まれた石柱が立っていた。ウィキペによると 浅野長勲〔あさの ながこと〕は広島藩第12代(最後)の藩主との由。

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記念碑山の左方、公園敷地の北西隅あたりにあった「傘亭」〔からかさてい〕。

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 ③傘亭(からかさてい)

狐山と呼ばれ以前よりの小山であった昼寝刻には子ぎつねが遊びたわむれたとのこと 秋夜 観月の地とされていた 名月 春の桜 秋の紅葉 等四季折々の良いながめの風光明媚の場所であった

  一宮ロータリークラブ
 ロータリー財団100周年記念

 

公園正面に引き返そうとすると、立派な石碑がまた一基あった。

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 ②手植杉・記念碑

安芸広島藩最後の藩主浅野長勲(ながこと)侯をはじめ海軍大臣のちの第21代内閣総理大臣加藤友三郎氏その他各界各面によるものです

  一宮ロータリークラブ
 ロータリー財団100周年記念

 

さらに正面に向かって進むと、「加藤呉鎮守府司令長官記念杉」と刻まれた石柱があった。wikipedia:加藤友三郎 の年譜には、確かに「1909年(明治42年)- 12月1日 呉鎮守府司令長官」という職歴が記されていた。

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正面入り口の、太閤千代シダレザクラの背面に植えられていた紅白のツツジの紅色が、一般的な薄赤紫の色合いと違ってちょっと珍しく感じられたので、何枚か接写した。

今回の締めは、これにしよう。

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