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竹鼻別院@岐阜県羽島市と市民の森公園の藤棚のフジが満開だった

実家でとっている中日新聞の地方版に、竹鼻別院のフジが満開だという記事が載ったそうだ。伝聞形なのは私自身は実物を見ていないから。4月20日付とのこと。間違っているかも知れない。

竹鼻別院というのは真宗大谷派の寺院で、実家のある市内ではたぶん一番大きなお寺である。

たしかフジ満開の時季はGW期間中かそこらで、「ふじまつり」というのがそのあたりに設定されていたんじゃなかったっけ? いくらなんでも早すぎないかと不安になった。

自ブログ過去記事を検索したら、4年前の5月5日付拙記事に「葉桜ならぬ葉フジとなっていた」と書いていた。

www.watto.nagoya

 

市の観光協会HPには、見ごろは4月の中頃からのようなことが書いてあったから、格段に早すぎるということはなかったかも知れない。だが今年はいろんな花の開花に限らず、季節の推移が早いような気がする。

hashimakanko.jp

 

そゆえば20日のNHKラジオ第1『Nらじ』で、史上最も早く4月中に梅雨入りするかも知れないと物騒なことを言っていた。

ちなみに観測が始まった1951年以降では、関東甲信越地方で1963年の5月6日に梅雨入りした記録があるとのこと。おいやめろ。

www.surf-life.blue

 

ともあれ翌21日に、見に行こうということになった。天気予報によれば午後から雨が降るとのことだったから、ギリギリの駆け足になった。じっさい雨が降ったし。

 

最初に出迎えてくれたのがこの看板というところが、今の時代だなぁ…

 

山門。藤棚が覗いている。

 

説明書き。2018年5月5日付拙記事 にて文字起こししていたので、ご関心がある方はご参照ください。いないか。

 

満開!

 

花弁を接写。

 

説明書きを接写。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20220421/20220421113203.jpg

この説明書きの文字起こしも2018年5月5日付拙記事にて行っていたが、一部データを省略していたので再掲する。

改行位置、変更しています。ルビある場合は省略します。以下同じ。

岐阜県
羽島市
天然記念物
 竹鼻別院のフジ
  目通り周囲 二・八〇m 枝張り東西 三三・〇〇m
  根廻り周囲 二・三〇m 枝張り南北 一五・〇〇m
  樹   高 二・四〇m 樹   齡 三〇〇年以上
 マメ科の落葉蔓性植物で、蔓は極めて長く伸びて右巻きに他のものに巻きつく。葉は奇数羽状複葉で互生し、果実は細長く扁平である。
 竹鼻別院のフジは、野田藤であり、樹齢が三○○年以上の古木である。市内では唯一の県指定の天然記念物である。
 古くより「竹鼻別院のフジ」として親しまれ、多くの文人墨客が訪れている。
 一時期、樹勢が衰え花房が小さく、花数も少なかったが、土壌改良などをした結果、徐々に樹勢を回復しつつある。
 四月下旬から五月上旬には、総状花序を垂れ、薄紫の蝶形の花をつける。その優艶な長い花序は晩春を飾るにふさわしく、人々の心を惹きつけてやまない。
  平成二十八年三月再建
   羽島市教育委員会

OCRにかけたあとで過去記事で文字起こしをやっていたのに気づいたことは黙っていよう。

 

本堂方向を見たところ。

 

本堂はフジ以外にもいろいろな花に囲まれていた。

 

竹鼻別院の由緒書き。

これは過去記事で文字起こししてなかった。

 竹鼻別院の由緒

 嘉禎元年(一二三五)親鸞聖人が関東からの帰途、三河の柳堂で教化された時、葉栗郡門間の庄、河野四郎通勝等九人の者が教えを受け、木瀬に草庵を結び聖人を迎えた。後世これを「河野九門徒」と言い、濃尾真宗門徒のはじまりであり、この草庵が竹鼻別院の前身である。
 文明二年(一四七〇)蓮如上人ご巡化の折、洪水で流れた草庵を再興し「河野御坊」と名付けられた。その後河野御坊は専福寺と改称されたが人災・天災などで何度も移転した。
 戦国時代、本願寺と織田信長との一向一揆(石山合戦)に、当時の住職忍語が出陣し戦死した。慶長九年(一六〇四)教如上人はその功に報い、寺を「御坊」とし新加納村から竹ヶ鼻村に移し、五十四ヶ寺を配下にした。竹鼻の下町にあった「御坊専福寺」は、再度の類焼に遇い現在の地に移転したのは、宝暦十年(一七六〇)である。明和八年(一七七一)から五十年の歳月を要し完成した本堂は、明治二十四年(一八九一)の濃尾大震災で倒壊した。しかし、「法燈を護らねば」と、篤信の門信徒達によって直ちに、南北八間・東西十八間の仮本堂が建立された。
 現在の本堂は大正四年(一九一五)から大正十一年にかけて再建された。なお、「竹鼻別院」と改定されたのは明治十九年(一八八六)である。
 岐阜県羽島市竹鼻町下城二八〇二
      真宗大谷派・竹鼻別院
      ≪電話番号省略≫

 

本堂から振り返りざまに藤棚の全景を。いや全景は収まりきらなかったが。

 

藤棚の下から覗いていた古い墓標。

 

説明書き。

上半分のみ文字起こし。下半分は退色してよく読めなかった。

羽島市指定
岐阜県指定
史跡
 薩摩工事義歿者
  竹中伝六喜伯之
   羽島市竹鼻町下城竹鼻別院
 この人は幕府の直臣で、宝暦四年(一七五四)薩摩藩が幕命によって実施した木曽三川改修の御手伝普請を監督するため、同年二月当地に来て一の手普請場(市内中、南部)に属し御小人目付となった人である。
 一の手普請場の第一期工事は三月に完成し、逆川締切などの第二期工事も年内に完了して今はただ検分を待つばかりとなっていた翌年正月十三日、突然この竹中氏が竹ヶ鼻村の止宿先旅館藤丸屋平右衛門方に於て刺刀で自害を遂げたのである。
 これは幕府側としては二人目であって、その理由は遺書もなく不明であるが、二十九歳という若さと役目柄からみて、恐らくは監督上の責任を負ったものと思われる。
 寺の過去帳には、その後の年回供養が、村の庄屋と藤丸屋によって長く続けられたと記す。今は、墓前の大藤が往時を偲ばせている。
  平成十六年三月再建
        羽島市教育委員会

濃尾平野南部の住人として、宝暦治水関係者への恩は忘れまい、と弊ブログにはしばしば書いている。

 

フジの木の幹と根元を撮ってみた。圧巻だが、フジの花は蜜が潤沢なのかアブやカナブンなど蜜を求める昆虫がたくさん飛び回っていて、接近するとちょっと危ない。三蜜回避、なんちて。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20220421/20220421113714.jpg

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竹鼻別院から市民の森公園へは近い。市民の森公園は4月1日にネタにしたばかりだが、ここにも藤棚があるので行ってみた。

www.watto.nagoya

 

「投句箱」越しに藤棚が見える。「投句箱」の矢印の示す方向にソメイヨシノの並木があって…

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20220421/20220421114750.jpg

 

すっかり葉桜になっていた、と言おうと思ったのだが、画面が暗いな。

雨が降り出す直前ということもあったが、スマホカメラを調整する必要があるかも知れない。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20220421/20220421114832.jpg

 

藤棚。竹鼻別院に比べると房の丈が短いのが目を引く。品種が違うのか、手入れの仕方か何かが違うのかはわからない。

 

ただしピンクに近い薄い紫、白、濃いめの紫のフジが一つの棚に並んでいるのは、竹鼻別院にはないここの特徴である。


藤棚を通り過ぎたあたりに真っ赤に春紅葉したモミジがあったので、近づいてみたところ…

 

過去記事に、ないないと書いてしまった「一茶俳句園」という看板があるのを見つけた。

ここの公園は、区画ごとに「万葉庭園」「蕪村俳句園」「宇宙庭園」などと名前をつけているのだ。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20220421/20220421115004.jpg

 

だが秋の句が春の花に囲まれる配置は、突っ込みどころがあると思う。

秋風や
 むしりたがりし
  赤い花
 一茶(秋)


公園で手入れをされた花ばかりが花じゃない。

駐車場の脇に、こんな可憐な野草が咲いていた。

 

Googleレンズによるとニガナというそうだ。さらに検索し直すと google:image:ハナニガナ がより近いようだった。

追記:ブックマークコメントで google:image:イワニガナ という名前を示唆いただきました。そっちかも(汗

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