運転免許を持っていない身内の無聊を慰めるつもりで、実家から車で行ける範囲のイベントを調べて出かけている。今のような気候のいい時季を逃すと、寒いときや暑いときは外出を嫌がるのだ。誰でもそうだろうけど。
今は岐阜公園で「第51回岐阜公園菊人形・菊花展」というイベントが開催中とヒットした。岐阜公園なら30分では行けないけど1時間はかからない距離だ。
提案してみた。「昔行ったことがある。あんたが見たことないなら」との返答だった。私が行きたいんかい? いいけど (^∀^;
ブログネタにもできるし、私が行きたいというのも、あながち間違ってはいない。
車を公園北側の駐車場に停め会場を北から南、南から北へと往復したが、説明の都合上本エントリーでは南東入口にある岐阜市歴史博物館前の噴水あたりを起点とする。
噴水右側の、仮設テントの内側に多数のキクの鉢植えが並んでいた。
噴水左奥に見える小屋のようなものが、菊人形の展示ブースだった。
正面から。光線の角度がよくないな。後ろの建物が岐阜市歴史博物館である。
弊ブログ勝手に恒例、文字起こし。改行位置、変更しています。ルビ省略しています。
茶を愛した信長の思い
殺伐たる戦国動乱の時代、部下の領土的野心に応じきれなかった大名の多くは、下克上によって倒された。領土には限りがあるが人間の欲望には限りがない。限りのある領土に代えて限りない欲望を満たすものとして、官位に伴う名誉があるが、それは朝廷独自のものであり、既成の権威を嫌った信長はそれに代わるものとして当時流行始めた茶の湯を取り上げた。狭い空間を無限の空間と感じ、主客とともに武器を携えることなく、一服の茶を通じ心の平安を得る茶こそ天下布武の次に来るべき平和な世の象徴であり、それを主催することを大いなる名誉としたのである。館の奥に茶席を設けた信長は、ここで日本六十四州の定後の平和な世を濃姫とともに思い描いていたのだろうか。
いったい織田信長に対する岐阜市民・県民の思い入れは強烈で、これから出てくる菊人形はどれも信長をモチーフにしている。個人の感想だが、やや美化にすぎるような気がする。
そゆえば俳優の 木村拓哉 氏が映画で信長を主演するご縁で「ぎふ信長まつり」に登場すると発表されると、市の人口約40万人の2倍を超える約96万通の観覧申し込みが殺到したことが全国ニュースにまでなったのだった。いやはや、すごいね。時代の記録としてブログカード貼っとこ。
話を戻して、テントの内側はこんな感じだった。
「大菊花壇の部」。
手前つか鉢の下部つかには栽培者の個人名が示されていましたが、スマホ写真ではアングルから外しました。
「自由花の部」。
岐阜市公式HPからダウンロードできるパンフレットのpdfによると、直前の写真のような体裁を「千輪仕立て」というそうだ。
岐阜市歴史博物館を背にして、東方向を見たところ。噴水の向こうのテントのあるあたりがメイン会場のようだった。
噴水の真上が金華山。頂に小さく岐阜城が見える。
いろいろな役物のあったスペース。
案内板のタイトルに "【信長・岐阜城の庭】を「アビラ・ヒロン」の『日本国王記』の記述より復元作庭しました。" とあった。スマホ写真の解像度が悪かったので、記事の文字起こしは見送らざるを得なかった。
入口左手。木漏れ日と日陰のコントラストが激しくて、わかりづらいな。常設っぽい。
右手。これも常設っぽいけど、掛かっている説明書きは菊人形展の役物に掛かっているのと同じフォーマットだった。
戦国時代の馬は小さかった
戦国時代の日本人の体格は、今より遙かに小柄で大きな馬は必要がなかったし、ほとんどいなかった。当時の鎧武者は重さが二十kgから三十kgもある鎧兜を着込み、大小刀から鎧通し、大身の槍に弓矢まで携えて、総重量百kgにもなったかと思われる。さらに、戦場は山あり川あり原野あり、足場などほとんど無いといって差し支えがない上に、戦闘時間も数時間及ぶこともある。こうしたとき武者が安心して命を預けることができる馬は、持久力があり、ものに動じず、小回りが利き、平時には農耕にも使用し、粗食に耐える木曽馬のよな馬が最適であったと思われる。
この役物がいちばん立派で、パンフレットの表紙にもなっていた。
人物は右手から平手正秀、吉法師(信長の幼名)、左側の侍女と従士には名前がなかった。
菊展のほうを。「山菊自営花壇の部」。盆栽との組み合わせだろうか。
「大菊小作りの部」。
直前のように丈を低く栽培することを「福助づくり」というらしい。パンフレットに載っていた。
「だるま」。
一鉢に三株を植えることをそう言うのだろうか? パンフレットにも、そんな写真が載っていた。
ぐぐればいいのか。どうやらそのようだった。
「美濃菊の部」。
「信長・岐阜城の庭」を抜けたところにあった大役物。逆光ですみません。
緊張続く物見櫓
尾張を統一し美濃を手中にしても、まだまだ非力な信長の採るべき道は情報戦略。桶狭間の合戦における論功行賞で、今川義元の首をあげた毛利新介よりも、義元が桶狭間(田楽狭間とも)において休息中との情報をもたらした梁田政綱を第一の功労者と認めたことに現れている。越前の朝倉義景のもとに寄寓していた足利義昭の利用価値を認めていたのも、こうした正確な情報収集の結果であった。早くて正確な情報無しに正しい判断は下せない。剛毅果断にして繊細かつ遅滞を嫌う信長の意を受けて、門前の厩には千里の駒が情報収集と指令伝進のため、いつでも早馬として出発できる体制が採られていた。物見櫓の番兵はそうした早馬が頻繁に出入するのを監視するため常に緊張を強いられていた。
あるいは常設の建造物に菊人形を乗せたのかもしれない。これなんか、明らかにそうだし。
天下に向かって開く門
風雲急を告げる戦国乱世。ここ信長の居館にも全国からの使者の往来かまびすしく、その応対に忙殺されている。
眼光鋭く冠木門に陣取った見張りの武者の足元に咲き誇る懸崖の菊花は、救援に向かう陣列を夢想し、迅雷の閧の声が耳にこだまし、奥床しくも優しく漂うその香りは、心ある武将が鎧兜に炊こめた香の匂いを想起させる。
嗚呼、過ぎし日にこの門を出、各地の戦場へ馳せ向かった武者の栄光いずこかに輝く。
うーん、やっぱり美化しすぎじゃないかな。
私の戦国時代に対するイメージは、もっとダイレクトな私利私欲…と言って悪ければ自衛本能同士の激突であり、それゆえ合理性・合目的性が要求され、美化や感傷が発生したとすれば深い心の傷を少しでも埋め合わせようとしてのものではないかと想像するのだが。
とまれ繰返しになるが岐阜市民、岐阜県民の信長に対する肩入れは、とにかく強烈だ。愛知、滋賀、京都など信長にゆかりの深い地は他にいくらでもあるが、うっかり岐阜人の前で「ノブナガはウチのもんだ!」みたいなことを口走らない方がいい。火縄銃の一斉掃射を食らう恐れがある。
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菊展、菊人形以外で、目についたものをいくつか。この日撮ったスマホ写真は、どれも木漏れ日と日陰のコントラストが激しくわかりにくいけど。
「狂俳発祥の地」なる石碑。
達筆で読めないけど、公園内で貰った「岐阜市句碑マップ」というA3 2つ折りカラーのパンフレットによると「たのしみや松に隠れしけふの月」と刻まれているそうだ。google:三浦樗良という人の句との由。
岐阜公園は全体として紅葉にはまだ早いが、ごらんのように一部鮮やかに色づいていた木もあった。カエデかな?
根元の石碑には
第20回「緑の都市賞」
内閣総理大臣賞記念植樹
平成12年10月25日
と刻してあった。
茶店。同行者が「おでんが食べたい」と言い出した。
一皿4本550円。東海地方のおでんは、ご覧の通りの赤味噌仕立てが特徴である。
ただし身内は「ダシがまだ十分沁みていなかった」と不満顔であった。食べなきゃわからんがな。
北口の駐車場に引き返す途中にあった「信長公居館発掘調査案内所」。
そんなに大きな建物ではなかった。まあ観光案内である。菊人形展・菊花展の印刷したパンフや、さきの「句碑マップ」など何種類かの資料は、ここで貰った。
北口とっつきにあった岐阜公園総合案内所。中に軽食堂と土産物売場があった。
岐阜土産。
身内は「若鮎の紅梅煮」というのを買った。これじゃないけどアユの佃煮は昔食べた記憶がある。甘辛い濃厚な味付けに勝るワタのほろ苦さが印象的だった。これはどんなだろう?
実物がなきゃ撮れない裏の写真を載せるのも、弊ブログ恒例である。
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