何年かぶりに訪れた岐阜市街の変化とか書きたいことは胸中にいろいろあるが、スマホ写真を調子に乗って撮り過ぎてしまい整理だけで一苦労だった。
今回の拙エントリーには、そのスマホ写真を淡々と貼っていく。
道路案内と「梅まつり」の幟。幟はそこかしこに立っていた。
公園門標。入口は何か所かにあるが、ここは西口だろうか。
公園敷地を西から東へと移動した。
全体に、ちょっと早いかなという気がした。サクラと違ってウメは開花時期がまちまちなので、一斉に開花ということはありえないかもだが。
「イノシシに注意」の看板、またあった!
自然、花を多くつけた木に接近することになる。その分バイアスがかかり、肉眼で見たときと写真を手がかりに思い出したときのイメージに差が出る恐れがあるが、それもまたいたしかたない。
木の根元に品種名を記した看板が立っていた。
「小梅」
これまで同様、引いて撮ったものと接写気味のものをセットで上げてゆく。
「月影」
確かにちょっと黄みがかってるような。
「茶青梅〔ちゃせいばい〕」
これはまだ裸木だったが、こういう木もあったということで、あえて撮った。
茶色いのか青いのか、どっちじゃーい?
広い敷地内には、石碑があったり…
お堂があったり。それぞれ由緒があるだろうけど、まだ調べてない。
公園内の遊歩道。木も立て札も、文字通り林立していた。
「難波紅〔なにはこう〕」
池と、石碑があった。
梅林は
わが心のふる里
春にさきがけて
花を見せる
梅は
わが心を洗い
勇氣をよびおこ
してくうれた
梅林は
わが心のふる里
日付と作者名、書者名が続くが、読み取れなかった。
あとで出てくるパンフレットによると「日中友好記念碑」だそうだ。
「一重寒紅」
「早咲鴬宿」
背景の黄色い建物は、あとで出てくるパンフレットによると管理事務所だそうだ。
大きな木の切り株と、石碑、そして説明書き。
太夫松の生涯
かつてこの場所には大きな松が枝を広げており、この松を太夫松(たゆうまつ)といった。
太夫松は幹周り二・七メートル、高さ七メートル、枝張り約十メートルという大木で、江戸時代末期に梅林公園(篠ヶ谷園)の創園者である篠田祐助氏によって植えられ、その長男祐喜氏に大切に育てられた。
以前は上の池の縁にあったが落雷で樹が折れ、この場所に植え替えられたという。
この太夫松は岐阜市の文化・歴史財産で、梅林公園の名物として市民から愛され、岐阜市の発展を永く見守ってきたが、平成二十一年にマツノザイセンチュウに入り込まれ、平成二十三年六月ついに枯死に至った。約百五十年の生涯であった。
平成二十四年三月 岐阜市
この梅林公園が、元は個人の所有物であったことがわかる。
切り株と石碑の向こうに、散策案内のマップがあた。
「寒紅梅」
幹越し枝越しに、円形の芝生広場が見える。
「米良〔めら〕」
張りつめた~弓の~♪
「青軸」
本当に枝が青かった。
「梅のパンフレット ご自由に お持ちください」
二度予告したパンフレットが、ここで出てきた。
ありがたく一冊いただいた。
先に名前の出た篠田祐助氏が明治初頭に一般向けに公開したことが由来であることや、マップ、それに公園に植えられている32ほどの品種名が、早・中咲種/中咲種/中・遅咲種に分類されて掲載されていた。
マップでいちばん目を引いたのが、このD51機関車の展示だった。
遊具と並んでいるのが、なんかいい!
柵の中に入れるようだった。
入ってみた。
さすがにデカい!
←どうぞ
あがってみて下さい
ええっ! いいの?
上がってみた。
すり減った運転席!
文字起こしは断念せざるを得なかった。惜しいけど。
時節柄、脳内に流れる「汽車は 闇を抜けて 光の海へ♪」のメロディ。
D51のすぐそばにあった「平和都市宣言」の碑。
機会あるたびに何度でも。
戦争反対!
NO WAR!
нет войне!
一刻も早い停戦の実現を!
さらにそのそばにあった「ぎふまち育て隊」の看板。
ぎふまち育て隊
adopt
岐阜市アダプト・プログラム
梅林公園を守る会(梅林自治会連合会)
私たちは、この公園の環境美化活動に取り組んでいます。
「ご苦労さまで賞」を差し上げたい。
「鹿児島紅」
岐阜県南部の住人は、宝暦治水の恩を決して忘れない。
芝生広場。
「茶青梅」
あれ、さっきの入り口近くの木は裸木じゃなかったっけ?
珍しく看板が出てなかったけど、ロウバイだよね?
念のためGoogleレンズ先生に訊いてみた。
ロウバイで間違いなさそうだ。
「紅冬至」
「早咲鴬宿」
これもすでに出たな。
と言うことで、敷地東端の出口にたどり着いた。
あとでマップを見たら北側(山側)にまだまだいろんなギミックがあるようだったが、なに機会を見つけてまた来よう。
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