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鈴鹿大学裁判第2回公判期日傍聴後、津市の偕楽公園を散策した

鈴鹿大学裁判関連の拙記事では、提訴時は津城跡公園 の、第1回公判期日の傍聴時は津観音寺 の、それぞれ散策を主コンテンツにした。裁判そのものとは関係の薄い内容である。

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たびたび繰り返すように裁判の内容を支援者がめいめい勝手に発信すべきではないという判断に加えて、裁判そのものは「期日」という言葉が示す通り書類の提出がメインで、ぶっちゃけあまりネタがないという事情がある。

第2回期日では、署名の提出も行いました。署名に協力してくださった方には私からもお礼を申し上げます。ありがとうございました。

公判には意見陳述という重要なイベントもあるが、原告の許可を取らずに内容を公開するわけにはいくまい。

 

それがわかっていたから、今回はどこを散策しようか事前に検索して決めておいた。

だが日東電工裁判関係のコンテンツが多くなってしまったため、散策関係のコンテンツは出番がなかった。

今回の拙エントリーは、いわばその在庫処分で、単なる散策記事である。

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今回の行き先は、津駅から近い偕楽公園というところにした。「津市」「花の名所」で複合検索すると、ここが上位に表示されるので。

だが先に結論を書いてしまうと、花というのはソメイヨシノのことらしく、いくらなんでも早すぎたので見られなかった。

東海地方でも先週中に開花宣言があったんだけどね、一応。

 

偕楽公園は津駅西口のすぐそばにあるが、西口跨線橋の階段を下りたロータリーから見える木立ちは、偕楽公園ではなく三重県護国神社のものである。

こういうとき、ご挨拶にお参りすることにしている。

 

神社の前を通り過ぎた突き当りに、公園入口があった。

ご覧のとおり公園入口はけっこう急な坂になっていた。

裁判を一緒に傍聴した三重県の人によると、元は藤堂家のお狩場だったとのこと。

 

「春まつり」というのをやるらしい。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20230320/20230320083928.jpg

 

上の写真の左の方に、蒸気機関車の展示があった!

蒸気機関車といえば、2月21日に訪れた岐阜市の梅林公園 にも展示されていたことを思い出した。

岐阜市もそうだけど津市も旧国鉄時代からの鉄道交通の要衝の一つだから、市民の思い入れもひとしおなのだろうか。

 

説明書き。

弊ブログ勝手に恒例、OCRによる文字起こし。改行位置、変更しています。ルビある場合は省略します。以下同じ。

  蒸気機関車(SL)
機関車の歩み
 明治5年9月12日、日本で初めて鉄道が開通し、蒸気機関車が走りました。大正8年には国産の電気機関車が生まれ、昭和7年にディーゼル機関車が生まれました。
D51型499号について
 この機関車は昭和16年2月1日に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を雨の日も風の日も32年以上走り続け、昭和48年9月17日、役目を終えました。
 その間に走った距離はなんと205万キロメートル(地球を約51周)にもなりました。多くの人々に親しまれたこの機関車は、昭和48年10月9日に大型トレーラーでこの公園に運ばれました。
 この機関車は、朝井憲一氏から経費の寄贈を受け国鉄より貸与されたものです。

 

運転台が覗けるよう工夫されていた!

ただし岐阜市の梅林公園と違い、内部には入れないようだった。

 

公園中心部かな? 児童遊具があった。

 

児童遊具を背にしたところに、なにやら石碑が。

拙堂齊藤先生頌徳碑
 この碑は、江戸後期の津藩が生んだ偉大な学者文人、斎藤拙堂の徳を称えるため、没後50年に当たる大正5年(1916)に、地元の有志(台石の裏側に刻名)によって建てられたもので、篆額(題字)は伯爵藤堂高紹(藤堂宗家第13代)の揮毫、碑文は門人三島中洲(二松學舎大学の創設者)の撰によります。
 齊藤拙堂は、寛政9年(1797)に江戸の津藩邸で生まれ、幕府の学問所(昌平黌)教授古賀精里について学び、文政3年(1820)、津藩校有造館の創設に伴い24歳のときに教官に採用され津に移りました。26歳の時には早くも講官(教授)に昇進し、29歳の時は幼い第11代藩主藤堂高猷の侍読(教育主任)を兼務します。その後は、生涯にわたり藩校教育及び藩主の学問指導と政治顧問の仕事に献身し、特に藩校督学(学長)として、津藩の文教を「天下の文藩」といわれるまでに向上させた功績は大きいものがあります。
 拙堂は、『拙堂文話』や紀行文『月瀬記勝』などの著作によって全国に文名が高く、また経世の志に篤く、天保大飢饉や外国船が日本近海に出没する事態に遭遇して、内外情勢の研究を進め、有効な政策提言や有益な啓蒙活動を行いました。59歳の時、幕府は拙堂の高い学識を評価し、儒官(昌平黌教授)に抜擢しようと第13代将軍家定に謁見させましたが、津藩への恩義から拙堂は就任を辞退しました。63歳で藩校督学を退任し、以後は津城北郊の茶磨山荘で自適の生活を送り、慶応元年(1865)に69歳で没し、四天王寺に葬られました。
 ここ津偕楽公園は、江戸時代後期に開かれた藩主の別荘跡です。この頌徳碑が津藩ゆかりの津偕楽公園に建てられたのも、拙堂の藩での功績を、またそれが郷土津市の誇りであることを示すものと言えるでしょう。
  斎藤拙堂顕彰会

四天王寺というのは津市内にある古刹である。

 

説明書き右上のQRコードのスマホ写真をめいっぱい拡大したら、なんとQRコードリーダーで読み込めた!

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/w/watto/20230316/20230316154313.jpg

…ので読み込み結果のリンク先URLを貼る。かなり長いです。

www.info.city.tsu.mie.jp

 

もう一度遊具の方を振り返ったら、ウメが可憐な花をつけていた。

 

なんだか和菓子細工みたいだと思った。

もちろんこっちがオリジナルで和菓子が模倣しているのだが。

 

このウメの木の向こうにあった、公園全体の案内板。

ちょっと長くなるけど、今後いくつか参照するところがあるから文字起こしを貼る。

津市指定史跡名勝津偕楽公園
  指定 昭和38年8月5日
 この付近は、もと「下部田山」あるいは「御殿山」と呼ばれ、藩主の鷹狩り場の休憩所の御殿が建てられていたといわれる。承応年間(1652~1655)には藩士に労をねぎらうために、遊息の地として分け与えられたという記録がある。11代藩主藤堂高猷は、この地を家臣から買い上げて、安政6年(1859)ここに山荘造成を行った。
「御山荘」と呼ばれたが、偕楽園の名称は、園内の亭舎に「偕楽園」の篇額が掲げられていたことによるもので、「人々が偕に楽しむ」という意味からきている。明治4年(1871)の廃藩置県後、この土地は国有地となり一時荒廃したが、整備して明治10年(1877) 4月、「三重県公園」として開設された。翌年9月園内において「三重県内物産博覧会」が開催され、明治20年(1887)には倶楽部が建設された。明治40年(1907)には第9回関西府県連合共進会が開催され、4月1日から60日間に78万人の見物客で賑わった。

① 中山武平君頌徳碑
 明治2年(1869)安濃郡村主村に生まれ、養蚕業の発展に寄与した。県高等養蚕伝習所を明野に開設し、関西製糸株式会社を設立するなど活躍した。また、地方行政の刷新、教育施設の充実、公共事業にも尽力した。
② 拙堂斎藤先生碑
 津藩の生んだ全国的にも著名な漢学者で、多くの文人墨客と交遊した。
 斎藤拙堂は、寛政9年( 1797)に津藩の江戸藩邸で生まれた。文政2年(1819)、儒員試補に抜擢さ
れ、文政6年(1823)には講官となり、文政8年(1825)には第11代藩主を継いだ藤堂高猷の侍読を命ぜられ、日夜藩主の誘導補佐に務めた。弘化元年(1844)には、第三代津藩校有造館の督学となった。主な著書に『拙堂文話』『月瀬記勝』などがある。
③ 鍼聖杉山総検校頌徳碑
 本名杉山和一。津藩士の子として慶長8年(1603)生まれ、幼くして失明、江戸に出て鍼術をきわめて5代将軍綱吉の病にも施術し、ついに最高位の関東総検校となった。
④ 旧塔世橋常夜燈
 もと旧塔世橋南詰めにあったもの。「部田の常夜燈」と呼ばれ、旅人の安全、神宮への感謝などを願って建てられたもの。その後、四天王寺薬師
堂前に移され、さらに現在地に移築された。春日型で高さ3.5m、天保元年(1830)建設。
⑤ 田上一雄君追懐碑
 日露戦争にて従軍して死没した氏の追悼碑。
⑥ 龍灯籠
 龍の形をした珍しい灯籠で、頭上に災盲と獣口のついた笠石をのせ、身をよじっている。
 藤堂高虎が朝鮮から持ち帰ったとも、二代藩主高次が江戸で作らせたものを移したものともいわれている。
⑦ 孝女登勢碑
 登勢は天明8年(1788)員弁郡阿下喜村の農家に生まれ、奄芸郡山田井村で養女となり、さらに6歳の時、安濃郡連部村の養女となった、養父母は病弱なため野良仕事ができず、貧窮で家屋敷も手放す有様だった。登勢はこの養父母を養うために、昼は奉公に出て、夜は養父母に孝養を尽くした。津藩主10代高兌はその孝養を聞き。、米20俵を与え賞し、田1反(約992㎡)余りも授けた。
⑧ 松本宗一碑
 伊勢新聞社の創始者の碑。三重県内最初の日刊新聞となった第1号は、「松本家志」によると明治11年(1878)に発行され13部の手書きであった。また、祖父の安親は松本崎の開拓者として知られている。
⑨ 殉職警察官吏・消防組合員招魂碑
 昭和10年(1935)警察協会三重支部と三重県消防協会により建てられたもので、それまでの殉職警察官25柱、同消防職員6柱の招魂碑
⑩ 三重県公園記念碑
 明治10年(1877)建設のもので、三重県公園として整備されたいきさつや、偕楽公園の四季の美しさを賞賛して勉学の大切さを説いている。撰並びに書の福井逼はのち安濃郡長となる。
⑪ 加藤嘉吉君碑
 日清戦争に従軍して死没した氏の追悼碑
⑫ 征西陣亡士卒招魂碑
 明治10年(1877)に起こった西南戦争で死亡した兵士の招魂碑で、当時の津町・安濃郡出身の兵士23名が記されている。彼らが戦場に赴いた時の様子も述べられている。撰の中内惇は明治初年に伊賀崇広量の督学参謀になっている。
  津市教育委員会

直前に出てきた拙堂斎藤先生碑が②に書かれている。

 

園内の裸木はソメイヨシノと思われるが、まだ開花の気配はなかった。

しかし提灯の準備は進められていた。

 

作業員さんが現在進行形で提灯の準備をしているところ。

 

いまだ冬色の里山に、鮮やかな赤の色彩があった。

 

上の写真左方のツバキを、ちょい接写。

 

稲荷大明神の赤い幟。こういうとき、ご挨拶の参拝は欠かさぬことにしている(本日二度目

 

公園案内板⑨の「殉職警察官吏・消防組合員招魂碑」があった。

 

上掲写真のすぐそばにあった石碑。「⑪ 加藤嘉吉君碑」かな。

 

休憩所。花見のシーズンに営業するのだろうか?

 

でかい石碑。「⑧ 松本宗一碑」だと思う。

 

石碑の右手の坂を下りたら、公園の外に出てしまった。

まだまだ公園の中で見てないところは、たくさんありそうだ。

 

「しだれ桜」への道標があった。

 

道標に導かれて隣接するやはり小高い丘の頂に来てみたが、あるのは予想通り裸木ばかりだった。

 

ただ偕楽公園と隣の丘の谷間のようになった部分に、何本かのウメが植えられていて、見頃の木もあった。

 

そのうち一本を接写して、今回の締めにしよう。

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