🍉しいたげられたしいたけ

NO WAR! 戦争反対!Ceasefire Now! 一刻も早い停戦を!

「差別からの自由」は「差別する自由」に優先する。よって「差別する自由」などというものはない

ツイッターで「人間には差別する自由もあると考えます」という発言が話題になっている。

ツイッターのことで、当該発言のみを貼ると「切り取り」などと批判される恐れがある。かといってタイムラインを全部貼り付けるわけにもいくまい。山崎 雅弘@mas__yamazaki さんのこちらのツイートからさかのぼると全容が辿れそうなので、引用をお許しください。

こういった言説に対しては、きちんと反論しておく必要性を感じた。要点は以下の3命題にすぎない。上掲ツイートに対してすでにリツイートしたものだが、敷衍のために、拙いエントリーを起こす。

命題1「人権を制限するのは人権だけ(他人の人権を制限するときに限り人権は制限を受ける)」

命題2「人権のもっとも重要な要件の一つである『差別からの自由』は『差別する自由』と対立する」

命題3「よって『差別する自由』は制限を受ける」 

    *       *       *

命題1の「人権を制限できるのは人権だけ」に関しては、過去にこちらの拙エントリーでも書いたことがある。「人権とは何か」を定義するのは難問だが、権利や自由をできる限り幅広く認めようとする考え方である。近代人権思想の基本的な考え方であり、現代法学において法体系の基礎でもある。日本国憲法においては「公共の福祉」という文言で表現されているとのことであった。

watto.hatenablog.com

命題2の「差別からの自由」というのは、法学的にはありふれた表現のはずだが、日常語としてはやや修辞的に感じられるかも知れない。もしそうであれば、「差別されない権利」と言い換えてもいい。マーチン・ルーサー・キング牧師の「私には夢がある」で有名なあの演説で繰り返される「黒人は(リンカーンの奴隷解放宣言から100年経過した現在でも)未だに自由ではない」という言葉は、「差別から自由ではない」という意味に他ならない。

   *       *       *

そして命題1と命題2を認めるなら、命題3の成立は自明である。「差別からの自由」は、「差別する自由」に優先する。もし「差別する自由」などというものが存在するとしたならば、であるが。中立ということはありえない。「どっちもどっち」というのも韜晦である。「差別する自由」というものは、明確に、ないのである。

   *       *       *

ツイッターで「人間には差別する自由もあると考えます」と発言した人のことを、私は全く知らない。現代芸術家とのことで、有名な人なのかも知れないが、少なくとも私は全く知らなかった。だからこの人が、どういう経緯で「差別する自由がある」という発言に至ったかは、想像するしかないのだが、命題1の敷衍で述べた、権利や自由をできる限り幅広く認めようという考えに基づいているようにも思われなくはない。しかし、もしそうだとしたら全くの誤りである。前述の通り、人権は人権によって(のみ)制限されるのだから。

「人権は人権のみによって制限される」という考え方もまた完璧ではない。人権が人権と対立したとき、どこで線引きを行うかは、いつの時代でも難問である。最近の例では、不倫報道があったとき、当事者のプライバシー権と報道機関の主張する「知る権利」には対立が生ずる。だが「差別する自由」なるものに関しては、そのような複雑な議論が発生する余地はないのだ。

それとも人権以外に基礎を置いた法体系を念頭に置いているのだろうか? 現代国際社会においては、そのような法体系を採用している国家も存在する。絶対君主制、イスラム法、共産主義法体系などである。だがそう想像するのも無理がありそうだ。何よりわが日本国では、それらの法体系を採用していない。

   *       *       *

もう一つ、山崎さんのツイートにもあるが、どうしてもこれは言っておかなければならない。我々は常に「差別される側」となる可能性がある。

人権とか自由とかいうものは、神のような存在によって天下り的に与えられたものではない。人間自身が、長い歴史的な苦闘を経てようやく獲得してきたものである。そして現在においても、獲得したものはまだ十分とはとても言えない。ましてや後退させることはできない。

第二次世界大戦中の米国における日系人強制収容の写真を集めた記事 “World War II: Internment of Japanese Americans - The Atlantic” より、一枚だけ引用させていただく(シェアボタンがついているので引用可能のはずである)。キャプションによると、1945年10月に収容所から自宅に戻った日系人家族の写真とのことだ。我々が「差別から自由」であるために、すなわち我々自身が差別されないために、「差別する自由」などというものはないと、機会あるごとに繰り返さなければならないのである。

f:id:watto:20170911212056j:plain

https://www.theatlantic.com/photo/2011/08/world-war-ii-internment-of-japanese-americans/100132/#img44

スポンサーリンク