著者の分身とおぼしき無神論者の「B」と、「B」の古い友人で若いときにカトリックに入信した「T」による対話編。なんだかんだあって「B」は「T」に次のような議論をふっかける。
「おまえはまだ、神様なんてものを信じているのか?」(p11)
それに対する「T」の答えは意外にも、次のようなものだった。
「じつは、神様がいるかどうか分からない。むしろ、いないんじゃないか、という気持ちのほうが強いな」(p12)
逆説的に見えるかも知れない。じゃ、なぜ「T」氏は信仰を捨てないか、ということになるのだが、実は私は個人的には、この「T」氏に強いシンパシーを感じる(いつの間にか敬称つけとるな)。
本書においては、「T」氏が入信したきっかけとして、敗戦直後の混乱期に当時まだ死に至る病であった結核に罹患した「T」氏が、療養所に定期的に慰問に訪れるカトリック神父に「神様なんて信じられない」と不満をぶつけたところ、「じつは私も信じられない」というこれも意外な答えが返ってきたことが語られる(p56)。
つまり「神様」を信じたのではない。慰問に訪れるカトリック神父という「神様を信じる人間」を信じたということなのだろう。
これは、逆を想像するとさらに理解しやすいんじゃないかな。もし「UFOや宇宙人」の存在を信じるか?と問われたら「UFOや宇宙人」自体の存在は信じてもいい。だけど「UFOや宇宙人が存在する」と吹きまわっている人間のほとんどは、信用できないぞ私は。
それはともかく、「B」氏の「それじゃ宗教は一種の精神療法じゃないか」という突っ込みに続いて、世界三大宗教の始祖ブッダ、イエス、ムハンマドは、集団精神療法家だったという「T」氏の仮説が開陳される。だが始祖の言葉を弟子たちが「教義化」し、始祖を神格化し権威にしてしまったために、現在見られるような宗教が成立したというのだ。ただしこれらは根拠が示されているわけではなく、あくまで仮説にすぎないのだが。
さらに、医療と宗教の区別が案外難しいこと、正気と狂気の区別はもっと難しいことなど、さまざまなテーマが語られる。ただし全体的にどの議論もやはり裏づけに乏しい嫌いがある。また、逆説的に見えて、案外平凡なことが語られているようにも感じる。
そう、小此木啓吾から香山リカまで、精神科医の書いた本はけっこう読んでいるが、精神科医の書くものは案外おとなしいものが多いような気がする。対照的に精神分析学畑の人は、岸田秀とか学者じゃないけど筒井康隆とか、派手にぶっ壊れてる人が目立つ。
弊ブログはアフィリエイト広告を利用しています