しいたげられたしいたけ

空気を読まない、他人に空気を読むことを求めない

お百度参り四社め(85/100)

昨日(6/2)の記事 で、今週末のお百度参りは来週に延期と書いたが、予定を変更し、今日(6/3)行ってきた。

理由は全く私的なものである。

お百度は週末の半日を充てている。それ以外にパソコン在宅仕事など、やるべきことがあるからだ。

だが今日は、久しぶりに眼精疲労が出てメロメロだったのだ。とてもパソコン仕事をやる気にはなれなかった。

メガネを新調したり、「めぐりズム 蒸気でホットアイマスク」を常用したり、何よりスマホパソコンをほどほどにするなど、気をつけていたつもりだったが、油断したのだろう。

幸い仕事の期限はキツくない。パソコンの代わりに、この光線の強い時期に、ずっと屋外というのも目に悪そうな気がしたが、さりとてほかにやるべきことも思いつかなかったというわけだ。

私的な理由も何も、もともと私が勝手にやっていることだと言えばそれまでだが。

   *       *       *

戦人塚。献花が新しい。昨日の供養祭の折に供えられたものだろう。

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日曜日だったので国道一号線沿いの大型店舗は駐車場に出入りする車が多かろうと、住宅街の路地を選択したら、向かいの高台にある瑜祇塔〔ゆぎとう〕が見えるのに気づいた! 昨日のエントリー に書いた、高徳院という寺院にある永代供養塔だ。

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スマホカメラにはズーム機能がある。画質はよくないが使ってみた。これまでもずっと目には入っていたんだが、意識しなかったのだな。

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それで今日は、道々、桶狭間の戦いについてあれこれと考えを巡らせた。写真からおわかりいただけるだろうか? 濃尾平野と西三河平野に挟まれたこの区域は、なだらかな丘陵地が続く。丘陵地と言っても高さはせいぜい数十メートル。ウィキペによれば市内の最高標高地点でも72mとのことだった。

 

今川義元は、居城のある駿府を出発して、尾張に入るのに三河を経由している。東三河地方には1000m級の山々がある。2万5千と言われる軍勢を率いたのだから、比較的平坦な経路を採用したことだろうが、そうした山々の記憶の新しい目には、尾張南東部の丘陵地など、ものの数ではないように映ったことだろう。

そこに油断が生じたのではないかと想像した。

 

昨日のエントリーに貼った「史跡 桶狭間古戦場伝説地」敷地内の案内板を再掲。やや誇張されているが、地形のイメージがわかりやすいのではないだろうか?

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戦人塚前から、西側の坂を撮った写真を示す。「狭間」と呼ばれる谷のようになった地形が、おわかりいただけるだろうか?

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この谷のようになった一番低いあたりを、名古屋鉄道本線と旧東海道が通っている。

赤い名鉄電車が通るところを、またしてもズームして撮ってみた。上半分がぎりぎり見えないかな?

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これは反対側の東側を撮ったところ。西三河平野と、遠くに三河山地が望める。

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これは丘陵地の、尾根というか、馬の背というべき路地を撮ったところ。

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何が言いたいかというと、このあたりの地形は、先に示した案内板にあるような、こんもりした丘がいくつもあるというよりは、山脈をうんと低くしたというか、指を開いて手のひらを机の上に伏せ、指を丘陵地に、指と指の間を低地に見立てたようなと表現すべきじゃないかと思う。

戦人塚のある高台と、 瑜祇塔のある高台は、低地をへだてた別の山脈つか「別の指」なのだ。

 

前回貼った「桶狭間古戦場まつり」のチラシも再掲してみる。

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チラシ中に見える服部小平太というのは今川義元に一番槍をつけた織田家の侍、毛利新助というのは義元を討ち取った侍である。いずれも戦国史好きには知られた名前である。

しかし織田信長が戦後に最も評価し最も多くの恩賞を与えたのは、義元の本陣の位置を信長に伝えた簗田政綱という武将であったことも、戦国史好きの間では有名だと思う。

なぜ梁田が桶狭間の勲功第一と評価されたかは、実のところ諸説あり不明である。フィクションには、梁田を忍者としたりスパイとしたりしたものがあったはずだ。

だがもし梁田を尾張南東部の丘陵地帯の地形に詳しい人物だったと想像すると、謎はあっさり解けるのではないかと思った。

高低差は数十メートル程度でさほどではないとはいえ、2万5千と言われる大軍がこの地域を通過するためには、低地を行軍した方が楽だろう。そうすると、どうしてもいくつかの隊に分散せざるを得まい。

いっぽう総兵力約3千と言われ今川方に圧倒的に見劣りする織田方でも、尾根伝いに兵を進め今川義元の本陣のみを切り離して包囲することに成功すれば、ワンチャンあったに違いない。

のみならず、高地から低地に攻撃する側は、逆の低地から高地に攻撃しなければならない側に比べて、圧倒的に有利なのだ。

これらの芸当は、尾張や西三河の平野ではもちろん、東三河の険しい山岳地帯でも物理的に不可能である。

そして史実として起きたことは、まさしくそのワンチャンだったのではないだろうか?

簗田政綱は地侍または地元の有力者で、配下に命じて義元の本陣を発見させ、また織田の諸隊を尾根道伝いに先導させたのだと、私は想像する。

 

しかし、そんなことが果たして可能なのだろうか? 宅地化が進んだ現在から当時の地形を想像するのは難しいが、幸い戦人塚に隣接して、開発から一部取り残された茂みがある。

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なんでここだけ開発から取り残されているかは知らない。上の写真の突き当りのあたりに、こんな「宅地造成工事規制区域」の標識(?)があった。

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下の方の円柱部の文字を、文字起こししてみる。

この区域内で宅地造成に関する工事をする場合は許可がいります。
詳細は県庁建築指導課 又は尾張土木事務所建築課 へ

 

茂みの中の通路とおぼしき部分を撮ってみた。甲冑に身を固め刀槍を担いだ大軍が行進するのは、ちょっと難しいかな? うーむ…

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とまれ、お百度の写真をもう少し貼ろう。

戦人塚から丘陵地帯の住宅地を抜けて、神明社の裏口を目指す。

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この経路を採用すると、拝殿右手から境内に入るんだった。

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拝殿。

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拝殿左側の摂社末社。

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上の写真の左側、摂社末社のある小高い丘の様子。さきほどの宅地造成規制区域に比べると、甲冑の兵士が行軍しやすいかも知れない。

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上の写真のあたりを、杜の外から撮ってみた。左側の道路は国道一号線である。

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神明社のある丘陵地の様子がわかりやすくならないかなと思って、大型店の駐車場から撮ってみた。

さきほど地形を指に喩えたが、そうすると丘の先端を切り通したのは「指を詰めた」みたいだなと、怖いことを考えてしまった。

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今回は15回お参りした。合計85回である。

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