本筋ではない枝葉末節に反応する性癖がある。
「自炊」による蔵書の処分を少しずつ進めているが、その間に昔読んだ本をたまに再読することがある。今回は坂東性純『浄土三部経の真実』を読み返した。私は NHKライブラリー版 で読んだが現在は版元品切れで、Amazon で調べたところ単行本版ならば新刊が入手できるようだ。
なお著者は 弊ブログ11月26日付記事 で取り上げた『親鸞和讃 信心をうたう』と同じ人である。こちらも先に刊行されたライブラリー版が品切れで、単行本があとから発行されていた。ライブラリー版というのは、おおざっぱに言って文庫本である。正確には文庫本よりほんの一回り大きい。値段も割高である(言わなくていい
通常は「単行本」→「文庫本」という順に刊行されることが大多数だが、その逆のコースが相次ぐというのは珍しい。理由はいろいろ想像されるが、正確なところはわからない。
言わなくていいことばかり言うから、本題に入る前の前置きがどんどん長くなる。言いたかったことは、今回もページは NHKライブラリー版に準拠しているという一言でした。
浄土三部経というのは、浄土教系の根本経典である『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』という仏典のことである。『浄土三部経の真実』は、それらに関して講演した内容を文字起こしたものだそうだ。そのうち『観無量寿経』に関する解説に、面白いところがあった。
『観無量寿経』について、簡単に説明しなければならない。発端は、ブッダ在世当時のインドの大国マガダ国において、太子の阿闍世(アジャータシャトゥル)が調達という悪友にそそのかされ、王位を奪うために父の頻婆娑羅(ビンビサーラ)王を幽閉し餓死させようとしたことである。調達とは提婆達多(デーヴァダッタ)の別名である。阿闍世は弊ブログで何度かネタにさせてもらったことがある。これとか。
王妃にして阿闍世の実母である韋提希(ヴァイデーヒー)夫人は、頻婆娑羅王を死なせぬため、こっそり食物を運ぶ。その運び方が変わっていて古来よく話題になるのだが、今回は省略する。それが露見して、韋提希自身も我が子の手によって幽閉されてしまうのだ。
韋提希は獄中より、かねて尊崇していたブッダに願いをかけ、助けを求める。すると耆闇堀山(霊鷲山)中にあったブッダは神通力によりそれを察知し、仏弟子の目連と阿難をともない、韋提希の前に現れるのである!『観無量寿経』においては、ブッダは案外珍しく超能力を使いまくる。仏典に登場するブッダが超能力を使うとは限らない。
ブッタと対面を果たした韋提希の反応を、まずは原典の白文を Wikisource よりお借りします。
時韋提希、見佛世尊、自絶瓔珞、擧身投地。號泣向佛 白言世尊、我宿何罪、生此惡子。世尊復有何等因縁、與提婆達多 共爲眷屬。
唯願世尊、爲我廣說 無憂惱處。我當往生。不樂閻浮提 濁惡世也。此濁惡處、地獄餓鬼畜生、盈滿多不善聚。願我未來、不聞惡聲、不見惡人。今向世尊、五體投地、求哀懺悔。唯願佛日、敎我觀於淸淨業處。
現代語訳が WikiArc にあったので、こちらも引用します。
韋提希はこのお姿を仰ぎ見て、すすんで胸飾りをかなぐり捨て、その足もとに身を投げ出して声をあげて泣きくずれ、釈尊に向かって申しあげた。
「 世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。
どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」
現代語 観無量寿経 - WikiArc より。段落番号省略しました。
願いを言うのであれば「ここから出してください」と最初に頼んだほうがいいような気もするが、韋提希に現前したブッダは物理的実体を持たない映像のような存在で、韋提希もそのことを理解しているのであろう、多分。
しょうもない突っ込みは措いといて、ようやくこれで今回の本題に入ることができるようになった。弊ブログよくあるで、タイトルですでにネタを割っているが。
白文、現代語訳とも、韋提希の台詞は改行によって前半と後半に分かたれている。この改行というか行間というか、実質ゼロ文字に、『浄土三部経の真実』は足掛け5ページ、文字数をざっと数えると2000文字の解説を施しているのだ!
改行コードはUNIXとMac OSで1バイト文字1つ、Windows で1バイト文字2つというのは、今回は無視する。
『浄土三部経の真実』は、韋提希のことばの前半を「愚痴」と位置づける。「自分の息子はいい息子であったのに、一体なぜ急変してしまったのか。それは提婆達多という悪い友だちのせいだ。ところがお釈迦さまは、あの悪い息子の友だちといとこ同士だそうではないですか。お釈迦さまは一体どうしてあんな悪者と親戚関係にあるのですか」(ライブラリー版P267、以下同じ)といった具合である。そして釈尊を讃える代わりにこのような怨みのことばが出てくるのは、釈尊に対して甘えというか、ある種の親しさ、身近さがあったはずだとする。
この間、ブッダはだまって坐っていたとするのである。それは、ことばではなく存在全体で無言の説法をしていたという解釈を示す。
ここで著者は、カウンセリングの喩えを出す。カウンセラーが「ああするべきだ」「こうしてはいけない」と指示を出している間は、相談者は心が休まらない、安心が見いだせないと言われるとのことだ。
ところがブッダはまったく言葉を発せず、ただ温かいまなざしで相手に向き合っているとする。韋提希にとって、ブッダはいわば鏡の役をはたすというのである。そうすると、愚痴を言っている人間には、自分の愚痴がそのままはね返ってくる。カウンセラーが鏡のようであれば、相談に来た人は自分の姿を見ることができるというのである。
釈尊は無言でそこにおられるだけで、韋提希夫人にこの自覚をもよおさせる。本当の自分自身に出会う、本心に出会うことが、仏さまに出会うことだと思います。そういう大きな仕事をしておられた。一見何もしていないようですけれども、非常に大きな仕事をしておられる。これが韋提希の本当の意味の開眼、つまり心の眼をひらくことにつながっていくわけです。
『浄土三部経の真実』P269
そして台詞の後半にあるような、清浄な安楽浄土を求める心境へと、だんだん変化してゆくのだとするのである。
私はカウンセラーのカウンセリングを受けたことがないので、本当にカウンセリングがそういうものかはわからない。カウンセラーによるカウンセリングは一度くらい受けてみたい気がするが、受けたらただちに強制入院の措置がとられるやも知れない。
初読のとき には気づかなかった!「行間を読め」とよく言われるが、ここまで実践した例は珍しいのでは?
著者は浄土真宗の人で、「不立文字」の禅宗や、「維摩の一黙〔いちもく〕雷の如し」の『維摩経』とは宗派が違うが、同じ仏教ということでどこかしら共通点があるのかも知れない。
浄土真宗を含む浄土教の祖師の一人に、唐の善導という高僧がいる。善導の著書に『観経疏』というのがある。『観無量寿経』のほとんど一言一句に注釈を施した大部の書物である。ひょっとしたらそちらが出典かも知れないと思い『浄土真宗聖典_七祖篇』に収録されているのでチェックしてみたが、そうではないようだった。ブッダが鏡のようなカウンセラーだとは書いてなかった。
こういうことを面白がる人が、私以外にそんなにいるとは思えないので、今回も遠慮して新着をお騒がせしないよう日付をさかのぼって公開します。