前回の拙エントリーに書いた一宮市の萬葉公園には、身内が同行していた。だが萬葉公園はたいへん広く、足が丈夫ではない身内と一緒ということで、カワヅザクラだけ見て帰宅した。
しかしそれだけじゃもったいないと感じたので、拙宅アパートに戻るとき遠回りしてもう一度立ち寄り、もう少し見て回ることにした。
過去にも一度、そんなことをしたことがあった。実家のある市の方向違いの隣町、海津市でやっていた「今尾の左義長」というのを見に行った時だ。前編は同行者あり、後編は単独行だった。うわもう5年も前か!
前回拙記事の最初に示した案内図の写真を再掲。
案内図を反対側から見たら、こんなふうになっている。
駐車場から萬葉公園の敷地に入って突き当りまで進み、まずは案内図の下方、敷地の南端を目指した。
この小径沿いにも、何本かのカワヅザクラが植えられていた。
小径の反対側には、こんな看板が立っていた。
弊ブログ勝手に恒例文字起こし。改行位置、変更しています。ルビある場合は省略しています。以下同じ。
お願い
この水辺には、市民ボランティア団体「萬葉公園ほたるの会」の皆さんが飼育したヘイケボタルも幼虫が放流してあります。また、ホタルも生息できる水辺環境づくりを行っています。
自然保護のため、下記についてご協力をお願いします。
1. 水辺に入らないこと。
2. ホタルを捕獲しないこと。
3. 他から生き物を持ち込まないこと。
この場所では、6月初旬から7月初旬にかけ、ホタルを観察することができます。
一宮市公園管理者
公園敷地の南端を出たところ。中央奥の踏切を、ちょうど赤い電車が通過するところだった。名古屋鉄道津島線である。
萬葉公園の南のほうは、住吉社という神社の境内である。ちゃんとお参りしました。
例によって、そこかしこに万葉歌を記した立て札が立っていた。
うのはな(うつぎ)
春されば卯の花くたし
我が越えし妹が垣間は
流れにけるかも
詠み人知らず
あしび
石の上に生ふるあしびを
た折らめど見すべき君が
ありといはなくに
大来皇女
こなら
下つ毛野みかもの山の
小楢のすまぐはし子ろは
誰がけかもたむ
詠み人知らず
上の写真の少し右に詩碑があった。
この詩碑は、郷土の詩人、佐藤一英(一八九九-一九七九)の師、福士幸次郎の標柱碑が昭和三十年十一月に建立
された時に詠んだ最後の二連で、福士幸次郎を偲び、かしの木を讃えたものです。
詩人の没後その遺徳を偲び業績を讃え、故一宮市長森鉐太郎を代表とする郷土の発起人により「佐藤一英詩碑建設委員会」が設立され、全国の有志より基金を募り、昭和五十五年四月六日に建立されました。
その後、平成十一年十月十三日、一英生誕百年を記念して「ふるさと切手」が発行されました。
すみません、佐藤一英という詩人、知りませんでした。
佐藤一英の詩碑はこれのあと2度、出てくる予定。
公園敷地つか神社境内つかには、長い水路があり…
ところどころ池のようになっている。写真からはわかりづらいが、池の中央の石の上にカモがいて、ちょっとびっくりした。
拡大写真、貼れるかな?
水路に沿って北上、カワヅザクラのほうに向かっている。
また立派な歌碑があった。
いらんこと言いの悪癖発揮。この写真を今回のサムネイルに選んだら、説明版が液晶ディスプレイみたい。
春かすみたなびくけふ乃
夕月夜
きよくてるらむ
高松の野に
春霞がたなびく今宵の三日月は見えないが遠く籬れた高松の野辺では清らかに照らしていることだろうと、故里を偲んだ望郷歌
この歌碑は、萬葦公園の生みの親である郷土の詩人、佐藤一英(一八九九-一九七九)が、「萬葉集十巻の六首の歌枕は、わが故里の高松を詠んだ歌である」と唱えた一首(詠み人知らず一八七四番)で、一英に賛同した郷土史研究家、森徳一郎(一八八五-一九七二)が揮毫しました。
碑の造形は、郷土の画伯、八木茂雄(一九一三-一九九〇)が、揖斐川天然巨石の表全体に鵄尾模様(大仏殿の「鳶の尾」形の鬼瓦)を施し、裏面に瑞雲と、蓮華紋を画き、万葉時代を彷彿させる造形美です。
歌碑は、一九五七年七月十七日(萬葉公園除幕式)、築込区域住吉神社境内に建立されました。
萬葉公園顕彰会訳
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カワヅザクラ並木の小径まで戻ってきた。
歌碑。
そしてネコ!
雁か音を
聞きつるなべに
高松の
野のへの草ぞ
いろづきにける
さいしょ 句碑を撮るのに気を取られてネコに気づかず、「ニャ~」と言われて気づいた。
かなり近づいていたが逃げる気配がなかった。いわゆる地域ネコだろうか?
カワヅザクラ並木の北側は、雑木林のようになっていた。
つげ
をとめらが後のしるしと
つげ小櫛生ひ代り生ひて
なびきけらしも
大伴家持
上の立て札の反対側当たり、立木の中にまた歌碑があった。
表に回ってみた。三基めの佐藤一英詩碑だった。
古里の
山に拾へば
松かさに
母の声あり
ふりしきる
夕日の道に
松青く
苔
青かりし
英
この詩碑は、郷土の詩人、佐藤一英(一八九九-一九七九)の戦後第一作の望郷詩編「一粒の砂」(昭和二十一年)に収録された一聯で、ふ音とま音を交互に踏んだ五・七調の四行詩です。
故郷を思う切なる心が詠まれています。
詩人の没後、その遺徳を偲び業績を讃え、森鉐太郎を代表とする郷土の発起人により「佐藤一英詩碑建設委員」が設立され、全国の有志より基金を募り、昭和五十五年四月六日に建立されました。その後、平成十一年十月十三日、一英生誕百年を記念して「ふるさと切手」が発行されました。
一宮市は広大な濃尾平野のど真ん中で山なんかないやろ、と突っ込むのは野暮ですかそうですか。
咲き残りのツバキの向こうに、案内図によると休憩所という建物があった。一見の訪問者が利用して休憩できるかは不明だった。
休憩所の裏手あたりに、また歌碑。
わがころも
すれるにはあらず
たかまつの
のべゆきしかば
はぎのすれるそ
歌碑 上田敏夫書
詠み人知らず
このあたりは八剱社という神社の境内らしい。
さっきのネコがいたところの歌碑といい、 想像するに、もともと万葉歌碑が何基か立っていたところを「萬葉公園」と命名して整備したのだろうか?
その八剱社。石製の目隠しとは珍しい。格式の高い神社なのだろうか?
本社拝殿の前に舞台があったし。敷地も建物も、決して大きくはなかったのだが。
お参りしました。舞台の前で柏手を打つと、反響が鮮やかだ。ひょっとして神社に舞台がある理由は、これ?
北方を見ると寺院があった。Googleマップによると西方寺というらしい。
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八剱社の境内を通り抜けると梅苑があった。公園敷地のほぼ北端である。
「戸苅梅苑」というマーカーが表示されるが、案内図には「梅苑」としか記されていなかった。
新元号「令和」の由来を記した説明書きが二枚、立っていた。
新元号「令和」の典拠
「梅花の歌」序文…初春の令月にして、
気淑く風和ぎ、
梅は鏡前の粉を披き、
蘭は珮後の香を薫らす…
大伴旅人
元号「令和」について
二〇一九年五月一日、「平成」から「令和」に改元された。六四五年の「大化」から数えて二百四十八番目にあたる。「令和」は、「『万葉集』巻五、梅花の歌三十二首の序文」から引用された。中国古典(漢籍)ではなく、日本の古典(国書)を由来とする元号は初めてである。
天平二(七三〇)年正月十三日、当時の太宰府の長官、大伴旅人は、太宰府や九州諸国の役人らを邸宅に招いて「梅花の宴」を開催した。当時、中国から渡来した大変高貴な花であった梅の花を詠んだ歌三十二首の序文は、旅人が書いたものと言われている。
【現代語訳】
新春のよき月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。
中西進『万葉集全訳注原文付』(講談社文庫)に拠る。
新元号「令和」には、「令月」の如く「令」しく、心和らぐ平和な時代になってほしいという願いが込められている。
令和二(二〇二〇)年二月吉日 寄贈 一宮中ライオンズクラブ
万葉歌の立て札は、このあたりの密度がいちばん高かった。
おばな
はたすすき尾花逆ふき
黒木もち造れる宿は
万世までに
元正天皇
だがウメを 詠んだ歌とは限らないというのが、なんとも。
うめ
春さればまづ咲く宿の
梅の花ひとり見つつや
春日暮らさむ
山上憶良
ウメを詠んだ歌がないわけではないが。
遠景に見えるのは西方寺の本堂である。
もも
春の園紅にほふ
桃の花下照る道に
出で立つをとめ
大伴家持
そう言えば俺、モモとウメを見分けられないな。
公園敷地の向こうに、どっかの畑のブルーシートが丸見えなのが、興醒めと言うより私の感覚としては「それがいい」感ある。なんでそう感じるか、簡単に説明することは難しいが。
やなぎ
青柳のはらろ川門に
汝を待つと清水は汲まず
立ち処ならすも
詠み人知らず
写真を乗せ文字起こしをした立て札のチョイスは全くの適当です。
駐車場に戻る道すがらにもカワヅザクラが何本か植えられていたので、それを貼って今回の締めにしよう。
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