週に一度か二週に一度、車で2時間ほどの実家の様子を見に行っている。
その折に身内の無聊をまぎらわすため、車で遠くないところに出かけることが多いのだが、今回の訪問日は朝から大雨だったのでどこにも行かなかった。
代わりに蛍光灯の交換とかしたから、それなりの勤めは果たしたと思いたい。
帰途、ネットで検索して実家から手軽に行けそうな場所ということで見つけた森川花はす田と「道の駅」立田ふれあいの里というところを、下見のつもりで一人で見に行った。幸いその頃には雨が上がっていた。
ネットで検索すると、森川花はす田の駐車場は隣接する「道の駅」立田ふれあいの里の駐車場を利用してください、という情報が表示された。
ちなみにこのあたりの旧名が立田村で、周辺の町村と合併し現在は愛西市である。
たびたび書いている通り身内が道の駅大好きなので渡りに船と思っていたら、私が実家に行く曜日は定休日だって? なんと間が悪い! まあ事前にわかったから、日をずらすなり他を探すなり何とかするけど。
「道の駅」立田ふれあいの里の説明書き。
弊ブログ勝手に恒例、OCRによる文字起こし。改行位置、変更しています。ルビある場合は省略しています。以下同じ。
「道の駅」立田ふれあいの里
道の駅について
「道の駅」立田ふれあいの里は、愛西市の申請に基づき、国土交通省道路局長により「道の駅」に登録されたものです。(平成17年8月10日登録)
「道の駅」は、一般道路で安心して利用できる道路利用者のための休憩施設で、休憩・情報発信・地域連携の3つの機能を併せ持つ個性豊かなにぎわいの場として快適で質の高いサービスを提供するものです。
「道の駅」立田ふれあいの里は、愛西市と愛知県が連携し、地域振興施設(産直施設・特産品試食施設・休憩所)・駐車場を愛西市が、駐車場・情報施設・公衆トイレを愛知県が整備したものです。
施設平面図と施設の整備主体の表があったが省略。
主に実家のある隣県だが道の駅は何箇所も訪問しているけど、このような一般性のある説明書きは見た記憶がないぞ。どっかにはあったのかな?
駐車場の車止めにハスの写真が埋め込まれているのが、ちょっと面白かった。
だがよく見たら「立田紅蓮」という品種と…
「ロータスホワイト」という品種が交互に並んでいるだけだった。全部をチェックしたわけじゃないから、他の品種もあったのかも知れないけど。
駐車場の敷地の隅に「レンコン街道」という石碑があった。
あいさいレンコン街道
愛知県愛西市
貴道は県産農林水産物やその加工品を活用し地域活性化に向けた優れた取組でありますので「いいともあいち食の街道」として認定します平成30年2月2日
愛知県知事 大村秀章
愛西市は、全国有数のレンコンの産地です。
「レンコン街道」は、平成30年2月に市観光協会が愛知県より「いいともあいち食の街道」事業において認定を受けたものです。地元産の農産物を活用した「食」をテーマとして取り上げ、農産物のPRと消費拡大を促進するものです。
「レンコン街道」ということもあり、道標はレンコンを模した形で作成しました。
古い話になるが「笑っていいとも」のタモリ氏は、一時期愛知県の天敵だったことがあるような…今日は突っ込みが多いな。
駐車場と一般道の境目あたりに「蓮見の会」の立派な看板が立っていた。
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森川花はす田に徒歩移動した。小川にかかる橋を渡って、すぐそばだった。
「あいさいレンコン街道」と書かれた幟が、すでに何本も立っていた。
「蓮見の会」は2週間以上も後であるにかかわらず、すでに満開の区画があった!
あぜ道から、接写がとても便利だった。
東隣(道の駅から遠い側)の「立田赤蓮」という品種札が立った区画には、まだ花が見当たらなかった。
辛うじてツボミを見つけた。名前の通り赤かった。
足場を利用した橋が、2か所に設置されていた。西側、道の駅に近い方。
東側。道の駅から遠い方。
橋の上から花が見えた。これも立田赤蓮かな?
違う区画の、ピンク系の花も何枚か貼ろう。品種名はわからない。
満開の区画には品種札は見当たらなかった。西隣すなわち道の駅に近い方の区画には「早尾紅蓮」という品種札がかかっていた。
だがやはり花は見当たらなかった。辛うじて、あぜ道から少し離れたところにツボミを見つけた。
「陽山紅蓮」という品種札も見つけたが、花もツボミも見当たらなかった。
これまでの写真に写り込んでいた、こんもりとした杜が気になった。神社に違いない、神社だったらご挨拶にお参りをするのがマイ習慣だから、しなければと思って南側すなわち公道から見て反対側にまわり込んだところ、ちょっと意外な石碑と説明書きを見つけた。
古木江城跡
室町時代の末期、織田氏の砦として築かれました。
当事この地方には、一向宗が広がっていて、真宗門徒のその教義に対する信心は絶大なもので、信長の意向に反抗しました。
信長は、長島の一向宗門徒を滅ぼすため、弟の信興にこの古木江に城を築かせ、門徒勢力の分断をはかりました。
信興がこの城を守っているとき、弥富の服部党や近くの農民に囲まれ、六日間戦いました。しかし兵力が少なく城に攻め込まれ、やぐらに上がって自害したと「信長記」には書かれています。地元では城外で討ち死にしたと伝えられています。元亀元年(一五七〇)一一月二一日のことです。
古木江城は小木江とも書き、地名にも「子消」「討レ」「頭倶前」などの名が残っていました。
富岡神社は、この一角に城の鎮守としてあったと考えられています。
立田村教育委員会
富岡神社という社標は見あたらなかったような。ちゃんとお参りしました。
道の駅の駐車場に引き返した。公道とハス田の間に砂利のスペースがあり車が何台か停まっていたから、私の車もここに停められたのかも知れない。
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