しいたげられた🍄しいたけ

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【創作】転生したら親鸞だった?(11)第2景【鎌倉編】車借・捨六(5/6)

暫定目次 各「その1」のみ クリックで詳細表示

(1) 第1景【現代編】猪飼家のマンションにて(1/6)

(7) 第2景【鎌倉編】車借・捨六(1/6)

(13) 第3景【鎌倉編】馬借・欠七(1/2)

(15) 第4景【現代編】個室病棟にて(1/2)

(17) 第5景【鎌倉編】ボクの無双(1/2)

(19) 第6景【鎌倉編】被差別集落(1/4)

(23) 第7景【鎌倉編】霊感商法(その1)

新着お目汚しを避けるため、日付をさかのぼって公開しています。体裁にこだわらず頭の中にあるものをダンブしている、という意味です。

前回はこちら。

watto.hatenablog.com

 

(地の文の語り手はボク (主人公) である)

捨六「お坊さま、善信坊さま」

捨六さんが話しかけてきた。

捨六「お坊さまは、その不思議なしゃべる小鳥と、しきりに都や鎌倉の偉い人たちのお話をされていましたが…」

秘書インコとの対話を聞いていたのだ。当然か。

ボク「差し障りがありましたか?」

捨六「いえ、近々またこのあたりでも戦〔いくさ〕があるかどうかが気になりまして」

ボク「源平の争乱は、このあたりにも影響ありましたか」あとで考えたら、これは愚問というものだった。

捨六「もちろんです。みんな大変な難儀をしました」

ボク「そうでしたか、すみません。都のことは自分の記憶がないので、わかりません」

何年かあと鎌倉で将軍が暗殺されるという大事件があり、さらにそのあとに日本全土が巻き込まれる内乱があることは、日本史の知識として知っていた。

だが、この時代の人にそれを告げていいのかどうかわからなかったので、黙っていた。

 

ボクからも尋ねてみた「捨六さんは都へ行ったことはないのでしょうか?」

捨六「ありません。私たちの仕事は、今朝がた通り過ぎた親不知子不知の難所を、砂橇〔すなぞり〕を使って都への貢物を一気に通すところまでです。その先の都までの道のりは、別の者たちが運びます」

親不知子不知! ということは、ここは今でいう富山県と新潟県の県境を、新潟県側に抜けたところなのか。

北アルプス山系北端の断崖絶壁が日本海の海岸ぎりぎりまで迫り、長らく干潮時の砂浜以外に通路がなかった場所のはずだ。

しかるに古くから米どころだった新潟県すなわち旧越後国の荘園からの収穫物を都に送るには、ここを通す以外にない。

専門業者が生まれるのは、むべなるかなといったところか。

 

秘書インコにも訊いてみた。

ボク「秘書インコ、ここがどこだかわかる? 21世紀の地名でいいんだけど」

秘書インコ「GPSが利用できないので、わかりません」

そりゃそうか。

 

ちなみに少し前の律令制の時代では、あとでウィキペディアで調べたところによると、租 (米)、調 (織物) などの税は庸の労役として郡司が指名した「wikipedia:運脚」により都に運ばれたとのことだった。

マンガ『火の鳥―鳳凰編』に登場する、自ら担いだコメに手をつけることができず飢えに行き倒れる角髪〔みずら〕の老人は、この運脚夫だったのだろう。

そしてここ親不知子不知にも、記録に残らないおびただしい悲劇があったことだろうと想像した。

ボク「捨六さんの本業は、その砂橇なのですか?」

捨六「いえ、越後の側で牛車も馬車もなんでもやります。むしろ多いのは牛に曳かせる荷車ですね。もちろん牛の世話もやります」

捨六さんの体から漂うケモノの臭いは、牛のそれだったのか。そう考えると、自然と敬意が湧いた。やっぱり臭いけど。

 

捨六さんが問わず語りに語った「荷を運ぶには牛や馬を使いますが、得手不得手があります。牛は足場の悪いところでも歩きますが、山地などの高低差は苦手です」

ボク「泥田で鍬を曳かせるにも牛を使いますもんね」

捨六「そうです。代馬〔しろうま〕といって馬に曳かせることもありますが、牛ですね。逆に馬は、山も歩きますが足場の悪いところは歩かせたくないです」

ボク「源平合戦の鵯越〔ひよどりごえ〕の "鹿も四つ足、馬も四つ足" ですね」

捨六「すみません、なんのことかわかりません」

近い時代の話だから通じるかと思ったが、通じなかった。マスコミがないので、地方には伝わりにくいのだろうか。それともあれは後世のフィクションだったのだろうか。

都々逸の "箱根八里は馬でも越すが" という文句や、悪名高きインパールの "ジンギスカン作戦" すなわち牛に輜重を運ばせてその牛も食肉にするという机上の空論が、あっけなく破綻したことなども思い出した。だが、もちろん口には出さなかった。

digital.asahi.com

 

捨六「ほんらい流人の護送は都の検非違使の役割と聞きますが、都を出たら手の空いた私らに任されます」

荷を通したあと手ぶらになった業者の一人が、流人 (ボクだけど) を届ける役に当たるのは、なるほど適切なアルバイトなのだろうと思った。ただし流人護送の頻度がどれほどあったのかは、わからない。

(この項つづく)

※ リアル作者注

親不知子不知を荷駄を砂橇で通したというのは、私の全くの想像です。ストーリー上言及する必要があってネットをいろいろ検索したのですが、情報がヒットしませんでした。また参考になりそうな文献も思い当たりませんでした。

歴史的事実としてはどうやって通していたのか、参考文献などをご存知の方いらっしゃいましたら、ぜひご教示いただきたくお願いします。

また流人を護送したのは wikipedia:流罪 や渡邊大門『流罪の日本史』によると、はじめ検非違使、平安後期には武士のようですが、都の彼らに親知らず子知らずの難所を越せるとは思えず、専門の輸送業者に代行させたことにしたのも私の想像です。

親鸞を誰が護送したかは、何冊か解説書や小説を読んだのですが、どれにも明確に書かれていた記憶がありません。

こちらも、もしご存知の方いらっしゃいましたら、ぜひご教示をお願いします。

追記:

続きです。

watto.hatenablog.com