しいたげられた🍄しいたけ

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漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その5:完結)

「その4」の続きです。

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宗教というものが、字面を見てすぐに連想される「来世における救済」「現世利益」だけでなく、様々な役割を担っていることは、前回も少し述べた。

ここに私の信仰告白を書いても、読者にとって意味は少ないであろうが、私が信仰を持っている人間であることは、たびたび書いている通り。『一枚起請文』と『歎異抄』に帰依するという立場である。

つかむしろ「完全な存在から見たら、不完全な人間などチョボチョボ」という考え方で、精神安定を保とうという、いわば道具に使わせてもらっている局面が多い。

watto.hatenablog.com

この拙記事に書いたのは「クリスチャン v.s. 非クリスチャン」であるとか「右翼 v.s. 左翼」であるとかの二分法が、「神の目から見たら」無意味だ、という趣旨だ。だがブコメで「わかりにくい」という意見をもらったりして、もう少しダイレクトに書けばよかったかなと後になって反省した。

要はこういうことだ。筒井康隆がエッセイに書いていたことだが、筒井の父上は京都帝大卒業で、筒井に対して「国立大学以外は大学じゃない」とよく言っていたそうだ。ところが誰だったか東京大学出身者が「東大以外は大学じゃない」と発言するのを聞き激昂するのを見て、内心快哉を叫んだとのこと。例によってタイトル失念の内容うろ覚えだが。

だいたい人間を二つに分類しようと発想した場合、おおかた自分を自分の主観で「よい方」「好ましい方」に入れようとするものだ。そんな分類に意味はない。

 

また私は「完璧主義の呪い」にかかった人間の一人である。何か書こうとすると、書く前から「お前(自分のこと)がこれから書こうとすることは、つまらんことだ」と自分自身が自分の批判者となって、手が止まることがよくある。完璧ならぬ人間に、完璧なものが書けるはずはないと考えると、いく分気が楽になる。極論ではあるが、これも「完全な存在」を仮定するご利益かも知れない。

 

宗教はまた「道具」としても使えるということである。

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今回の記事のタイトルに「宗教」と書いたのは、夏目漱石、三島由紀夫、筒井康隆の連作の最終作においては、宗教が物語を終わらせる「道具」として使われている、と言いたかったにすぎない。

 

漱石『』後半では、主人公の野中宗助が、鎌倉の一窓庵〔いっそうあん〕という禅寺の塔頭に参禅する場面が描かれる。岩波文庫の辻邦生の解説によると、「大学時代に漱石自身が円覚寺に参禅した経験が土台になっている」(P252)とのことである。

ウィキペの 「門 (小説)」 の項には、『門』が『それから』で見られたような大きなクライマックスを持たなかったのは、漱石の病状の悪化が原因ではないかと書いてあるが、私としては異議ありで、『三四郎』で着火し『それから』で油を注いだ物語を、クールダウンするのに必要な静寂だったのではないかと考える。つまり物語世界を一旦を終わらせる方便だったのだ。漱石の創作活動は続くにせよ。

 

三島『天人五衰』に対する私流の解釈は、前回の拙記事に書いた通り。意地悪の名手だった三島が、彼の読者に対して仕掛けた「謎」という意地悪だったという私説である。ただし四部作の第三作以前の作品にも、宗教的な色彩は時おり現れる。特に第三作『暁の寺』では、上座部仏教やヒンドゥー教に関するトリビアが、ふんだんに開陳されている。これは三島のもう一つの特徴である調査癖、完璧癖の発露であろう。一例だが、ブッダがヒンドゥー教においてはヴィシュヌ神の十の化身(アバター)の九番目として、偽りの教えを述べて民衆を惑わす役割を担わされていることを知って、ショックを受けた(新潮文庫版P80)。今であれば、google:加上説 だと即座に腑に落ちたであろう。

 

筒井『エディプスの恋人』は、前二者と違い一神教っぽい雰囲気だが、キリスト教でいいと思うのだけど、一神教に関するまともな解説書の一冊も読めば、『エディプス』の神学がインチキであることは、すぐわかる。インチキという言葉が悪ければ、筒井のオリジナルだ。なお宗教に関しては、まともでない解説書がなんであんなに多いんだ?

繰返しになるが『エディプス』や、それに発行時期が近い『富豪刑事』それに『大いなる助走』に、後の一連の実験小説の先駆けと思われる部分が見つかることが興味深かった。

『富豪刑事』は「その2」にちょっと書いたので『大いなる助走』を簡単に紹介する。ハシにも棒にもかからない小説を持ち寄って同人誌を発行しているサークルに、ひょんなことから参加することになったサラリーマンが、実は才能を持っていて、同人誌に載せた処女作が直廾賞〔なおくしょう?〕候補にまでなるという筋だ。ネタバレの方が多く流布しているかもだが拙稿では自重する。そのアマチュアの手になるどっしょもねー駄作小説の描写が、いろいろ面白くて読みどころなのだが、その中にこんなのがあった。小説の前半で死んだはずの登場人物が、後半で何食わぬ顔で再登場し、それに関する説明がしまいまでない、というもの。これは『エディプス』と重なる部分があって、『エディプス』にはちゃんと(?)説明はあるとは言え、筒井わかってて楽しんでやってるなと思ったものだ。

またしても脱線したくなったので脱線する。『助走』に登場する、才能のないアマチュアが書いたとされる小説の断片は、どれもダメダメさが誇張されていて読んでいて小気味がいい。だが、現実の同人誌をひもといたことがある人はご存知の通り、事実は小説の斜め上というか斜め下というか垂直下というか、才能の有無の差というものは、格差社会どころの騒ぎじゃない、そら恐ろしいまでに残酷なものなのだ。私は一度でお腹いっぱい、と才能のない奴が言っています。

 

ともあれ、漱石、三島、筒井の連作の最終作で宗教色が出てくるのは、宗教を「物語を終わらせる道具」として使っているなというのが私なりの結論で、それだけを言うのであればブログとはいえ五記事も使うことはなかったかも知れない。

 

逆の極端を考えると、わかりやすくなったり、面白くなったりすることがある。物語を終わらせることに失敗したか、そもそも終わらせる意図がなく「行けるところまで言ってやれ!」という判断をとったと思しき例を羅列してみる。

筒井「七瀬三部作」の発表時期が私の高校時代と重なることは前にも書いた。あの年代の記憶は特殊で、のちのちまで残る。ふと思い出しただけでも、『スターウォーズ』(1978年)、『宇宙戦艦ヤマト』劇場版(1977年)、『機動戦士ガンダム』(1979年)、それに森村誠一『証明』シリーズ(『人間の証明』初版1976年、映画1977年)、そうそう『ロッキー』(1977年)もあった。洋画は日本公開の年次です。しかし思いつきで並べてみたけど、ちょっとすごいな。どの時代を切り取っても、こんなラインナップができるものだろうか? いずれも現代までえんえん禍根を残す連作の第一作である。禍根って何だよ?

 

それぞれのシリーズには一家言も二家言も持つ熱心なファンがいるだろうから、咥えタバコで火薬庫へ入っていくようなものかもだが、雑に概観すると、共通点めいたものが見えてこないかな?

最初からシリーズ化が計画されていたのは『スターウォーズ』くらいで、それ以外は第一作が予期せぬヒットを飛ばし、予定になかった続編以降が製作されたというパターンが多いんじゃないかということだ。特に第二作が火に油を注ぐことに成功すると、三作目以降で風呂敷を畳もうという気配があまり感じられなかった。商業的にはそれが正解なんだろうけど、続編が作られることに関しては、同時代のファンからは概して不評だった。『君の名は。2』というのができたら、観たいですか?

 

映像の場合、大勢のスタッフが必要だから、物語世界の完成度とかには無関心で、ドル箱の確保優先という判断になるんだろうか。森村『証明』シリーズは小説だが、第二作『青春の証明』、『野生の証明』(いずれも1977年)で重なっているのはタイトルだけで、内容も登場人物も相互に関連なかったという例はあるけど。『人間』のヒットを受けての急遽の企画、いわゆる「カドカワ商法」の一環だったのだろうな。二時間ドラマでお馴染みの棟居刑事が再登場するのは、かなり後になってからだ。

 

これら70年代後半が源流のシリーズについては、後日何か書くかもです。

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世に三部作というのは、数限りなくある。今回の一連のエントリーを書こうと思ったきっかけの一つは、北村薫の「時と人」三部作の第三作『リセット』のAmazon書評を、何かのはずみで目にしたことだった。「これが三部作のラストとしてふさわしかったのだろうか?」という疑問を書き込んでいた人がいたのだ。「『スキップ』には意外な展開があったが…」あかんやないかあかんやないか、ネタバレだ。これ以上は読むのを中止しよう。自分ではさんざんネタバレをやっておいて、どの口が言う?

北村のものはよく読むほうで、「覆面作家シリーズ」三部作と「令嬢探偵シリーズ」三部作は読んでいたが、なぜか「時と人」三部作は未読だった。「覆面作家」と「令嬢探偵」はどちらも短編集だが。また「令嬢探偵」はウィキペでは「ベッキーさんシリーズ」と表記してあった。

北村のことだから、おそらく何か仕掛けがあるのだろう。それはたぶんシリーズを「終わらせる」ために必要だったのだろうと想像する。違っているかもだが。いずれにせよ読まねばならない。

 

「その1」のブコメでは、鈴木光司の『リング』、『らせん』、『ループ』にも、漱石、三島、筒井の連作と似た構造があると教えていただきました。ありがとうございました。『リング』は映画は観たけど小説は未読だから、これも読まなくちゃ。

 

未読の本がなくなることは永久にないとは言え、何か書くたびに自分の力不足、勉強不足を痛感する。死ぬまで読んでは書き、読んでは書きの繰り返しだろう。いや、そうでなくちゃいけないんだろうと思う。

というわけで今回の拙記事は、実は一連のエントリーを「終わらせる」ための記事でした。お目汚し失礼しました。

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