週一か二週に一度、実家の様子を見に行っている。春秋の気候のよい時季には、高齢の身内の無聊を紛らわすため、車で近場に連れ出している。
今週は、第53回岐阜公園菊人形・菊花展というのに行った。帰途、JAぎふ産地直売所おんさい朝市茜部というところに立ち寄った。
菊人形・菊花展はHPによると開催期間2024年10月26日(土)~11月24日(日)と始まって間がなかったため、全体に盛りには少し早かったかなという印象を受けた。
gifu-bunkasai2024.pref.gifu.lg.jp
以下、スマホ写真を淡々と貼っていく。
「自由花の部」のブース。ブース内はどこも菊の香が強烈だった。
説明書きをGoogleレンズで文字起こしした。改行位置、変更しています。以下同じ。
自由花の部
この部門は、作者が自由な発想に基づいて育成した菊花作品を展示したもので、出展にあたっては大菊、新花、古花等、規定はありません。
「大菊花壇の部」。
この部門では、3本立ち (1つの株から3本の茎を仕立て、各大菊を咲かせる。)は12鉢また、1本立ちの場合は20鉢をもって一つの花壇を構成したものです。
この場合特に花の大きさ・色茎葉等の育成状況等の全体的な美くしさを追求されるものです
「美濃菊花壇の部」
岐阜県は元美濃国と云われた地域で美濃菊の発祥地であり、また日本の皇室菊花御紋章はこの美濃菊の先祖に当る一文字菊から図案されたと、聞きおよんでいます。この花の特色は花弁の巾広く裏表の色が異なる物があり、一種の壮重味と、艶やかさを持った花である。岐阜を代表する花と云えましょう。この岐阜公園愛菊会においても特に美濃菊の栽培と普及に努めております。
いつぞやの「さざれ石」もそうだったが、岐阜県は全国でも屈指の「保守王国」と言われるだけあってか、皇室尊崇の念の強さをそこかしこに感じる。
たまに書いている通り、私自身の皇室に対する態度は「敬して遠ざける」であるが。
物見やぐらの上に菊人形があった。
菊人形展案内図と、右側は山之内一豊・千代の碑。
右側の立派な石碑に刻されていた文字。
山内一豊と千代 婚礼の地
永禄十年(一五六七年)九月十八日
織田信長が岐阜に本拠を移した時
下級武士である山内一豊も岐阜に移りました。
岐阜城下に居を構えた一豊は
時をおかす千代を迎え
新婚生活を始めました婚礼の日
「一国の主になる夢を二人で叶えましょう」
「生涯私だけを愛してください」
と誓いを交わし
その後一豊は長浜・掛川・土佐の国主へと
出世していきました。長良川と
一豊を愛した
伴侶の鑑
千代を讃える悟りへて迷いの雲の晴れぬれは真如の月を見るそ嬉しき
見性院道歌
見性院というのは、検索したところ千代の出家名だそうだ。
左側の立て札。
千代の鏡と一豊の出世
千代 が一豊に嫁ぐ際
「夫の大事に初めて之を使うように」
と言い含められ
鏡箱に金十枚を忍ばせ持参し
貧しい暮らしながらも
千代は決して
その隠し金を使わなかった
ある日市に出された名馬に
一豊は釘付けになる
値は誰も手が出ない金十枚
千代は隠し金を一豊に差し出し
ついに一豊は名馬を手に入れる
信長から名馬とその心構えを讃えられ
一豊は出世を掴む事になる
一豊・千代推しは大河ドラマ『功名が辻』を踏まえてだろうか?
と言いつつ岐阜県・市が今も昔も全力推ししている戦国武将が織田信長であることは、論を待たない。
以下、メインの役物。
戦国武将ゆかりの地 岐阜
岐阜でゆかりのある戦国武将と言えば数多くいるが、最も多く名前が挙がる人物は織田信長公であろう。永禄一〇年(一五六七)、妻濃姫の甥、斎藤龍興を追放し岐阜に入城した信長公は「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」と改めるとともに天下布武を掲げ、天下取りに着手した。また、信長公は楽市楽座で経済を活性化させ、兵農分離では専門の戦闘集団を作り上げるなど、当時誰も思いつかなかった様々な政策を打ち出した。その後、天正四年(一五七六)、信長公は岐阜城を長男信忠に譲り、自らは安土城に移った。そして天正十年(一五八二)、本能寺の変で明智光秀公に討たれ、その波乱の生涯を閉じたのであった。
永禄一〇年(一五六七)、斎藤道三の孫・斎藤龍興を追放し、稲葉山城を手に入れた信長公は地名を「井口」から「岐阜」に改め、以後約九年間にわたりこの地を天下統一の拠点とした。
この間信長公は、様々な新政策を取り入れ、まちづくりに尽力している。
そのひとつである「楽市楽座」は、市場での交通や種々の特権を認めたもので、戦乱で荒廃した街の復興と経済の活性化に大きく貢献した。キリスト教宣教師、ルイス・フロイスは当時の市場の賑わいを見て、「バビロンの混雑を思わせる」と綴っている。
今年の菊人形舞台は、その一幕を再現したものである。
光秀にだけ敬称がついてるな。信忠、道三、龍興、フロイスらにはついてないのに、と細かいところにこだわってみる。
大河『麒麟がくる』を踏まえてかな?
大河ドラマに話が及ぶと、いつも舞台になる土地の偏りが気になる。京都は仕方ないとして、わが岐阜・愛知は恩恵を受け過ぎで気が引ける。あと薩長土とか。
北方太平記『破軍の星』『武王の門』で東北と九州、それから紫式部をやったのだから夏目漱石で熊本や愛媛それから伊豆を舞台に…と書こうとして、自ブログを検索したら今年の1月にも同じことを書いていたのを思い出した。
右が信長、中央がフロイス。左側は名札が光って読み取れなかった。たしか固有名はなく「商人」のような説明書きだったと記憶している。
役物左側の菊花壇。満開にはほど遠かった。満開になったら、今日最初に貼ったブログカードのHP中にあるような一面の菊花になるのだろうか?
役物左側の銅像と説明書き。
板垣退助遭難の地
明治十五年四月六日午後一時、時の自由党総理 板垣退助が中教院にて演説を行う参会者百余名夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚褧〔あいはら なおふみ〕が総理の胸を刺す。
総理
「板垣死すとも自由は死せず」
と有名な言葉を残したのである。
即ち板垣総理遭難の地である。
総理総理と繰り返しているが、3行目に記されている通り「自由党総理(今で言う総裁?)」の意であり、板垣は内大臣に2度就任しているが日本国内閣総理大臣はやっていない (ぐぐった
以下、順不同、拾遺的に。
庭園。菊人形展案内図と一豊・千代の碑の、さらに左方にあった。
岐阜城の井戸
この辺り一帯は、戦国時代に斎藤道三や織田信長が、山頂の城とともに山麓に建設したとみられる居館区域に当たる場所で、この井戸は平成十一年の発掘調査でみつかったものを復元したものです。
発掘した際は、石積みの基礎に松の角材四本が、井桁に組み合わされて敷かれ、井戸底にサワラとヒノキで作られた桶が埋まっており、当時はこの桶に水が溜められていたことがうかがわれます。
城の井戸は重要らしく、どこの城でもよく井戸の説明書きを見かける。
ところでGoogleレンズ、いつもながらマジ優秀! ノイズの多い画像でも、多少の誤変換は免れないがちゃんと読んでくれる。
庭園とメインの役物の間にも、いくつかのブースがあった。
盆栽のような鉢にも、盛りには菊が花を咲かせるのだろうか?
「だるま」。検索すると「だるま作り」とは1鉢に背の低い菊を3本寄せる咲かせ方だそうだ。
「福助」。「だるま」より、さらに背の低い株である。頭の大きい福助人形になぞらえた名称だそうだ。
メインの役物スペースには、左奥から入って正面に抜けた。
その向かいにあった噴水と岐阜市歴史博物館の建物。
歴史博物館の前には、武将の菊人形があった。
菊人形というと女性をイメージするが、男ばっかりだったな、といらんこと言い。
博物館を背に噴水方向を見ると、金華山と岐阜城が見えた。
遠近法で手前の頂きが高く見えるが、ピークはもちろん岐阜城を乗せた方である。
駐車場から岐阜公園への通路は工事用フェンスで囲われていて、まるで迷路だった。1本道だけど。
岐阜公園再整備
「岐阜」を嗜み OMOTENASHIを堪能する
岐阜公園の更なる魅力の創出と
新たなにぎわいを創出するため、
官民連携により、
飲食店(カフェ・レストラン)や
物販店を整備しています。
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身内はJA産直や道の駅が好きなので、帰途「JAぎふ産地直売所おんさい朝市茜部」というところに立ち寄った。ここはまだ来たことなかった。
「入荷 新米」の幟が立っていたが…
新米は入り口を入ったすぐ奥にあった。
「岐阜県産コシヒカリ 10kg 6,300円 5kg 3,190円」
高っ!
内心とっさにそう思ったが、身内は口に出して「高い」と言っていた。
新米価格が高止まりしているというニュースはよく耳にするが、時間が立てば落ち着いてくれるのだろうか?
入口左側、上の写真の右奥に しいたけ があった。「信長」なんて品種あるんだ。
店内。比較するものじゃないけど、よそのJA産直に比べてちょっと狭かった。
商品の並んでない棚も多かったし。
サトイモとサツマイモ。
果物。奥のオレンジ色はミカンと柿、手前の緑色はレモン。
葉っぱもの他。
「一般食品」の棚。
今回は身内は何も買わなかった。そういう日もある。
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