時系列的には「その1」と「その2」の中間にあたる、2日目午前中の話になります。
災害ボランティア報告の「その1」と 阿豆らいち さん個展初日レポートの「その2」は、当方の気分的に早めに公開したかったので、順番を入れ替えました。
補遺的な話も少々。西船橋駅南口からほど遠からぬ、このカプセルホテルが今回の宿でした。チェックアウト時に撮った外観です。
「その1」に、船橋の怪人からサプライズ訪問を受けた旨を書きましたが…
闇に乗じてしいたけ襲撃
— nekohanahime (@nekohanahime) September 29, 2019
実は、怪人がフロントを訪れた時は、ちょうど私はどっかで夕食を済ませようと外出した直後だったのです。
ホテルのあるブロックの一つ北隣(駅に近い方)の南西隅に「やよい軒」があったので、「ここでいいや」と入店したのですが、怪人からのサプライズ訪問は「きっとここに違いない」とのことで、この店内ピンポイントで受けたのでありました。「その1」では、そのあたり端折って書いてしまいました。
「その1」や自ツイートに「あんまりびっくりすると、脳が一時的に反応しなくてびっくりすることすらできない」と書いたのは、そういう事情があってのことでした。
なんでそんなことができるの!? 恐るべし地元民の土地勘!
いやいや、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
サプライズ訪問と言えば、もし可能であれば私もやりたかったことがあったのでした。自ブログで拡散しておきながら、自分では一度も参加することができなかった「きーちゃん応援会」の皆さんのライブが大宮であったのですが…
千葉から大宮までは、やはり遠かったことと、体力的にキツかったことにより、見送らざるを得ませんでした。
今後も「きーちゃん応援会」の元メンバーさんたちが企画するイベントがあれば、今度はそれを主目的に、次なる関東遠征を考えたいと思っています。
きっかけさえあれば、関東は私の鉄道趣味やら神社仏閣趣味やらに照らして、ついでに行っときたいところの宝庫なんですよね。いつもながら不純な理由の総動員ですみません。
会場オープン直後は、どうしても細かいレイアウトの手直しがあるということで、個展訪問は午後からにしました。
午前中の行先に関しても、何人かの方から「ここ見とけ」というサジェストをいただきました。まとめてのお礼で失礼します。ありがとうございました。
すでに書いてしまったように、銀座への経路上にある柴又帝釈天こと題経寺が未訪問だったので、そこにしました。
最寄駅は京成電鉄金町線の柴又である。京成西船駅に移動するには、JR西船橋駅を通り抜ける必要がある。
JR西船橋駅はJR2路線、地下鉄1路線が乗り入れる要衝駅だが、南口から眺めるとローカル駅の風情が色濃く残っている。一歩コンコースに足を踏み入れると、すごいことになってるんだけど。
あと北口ロータリー周辺が比較的賑やかだった。自由通路と北口の写真も撮っておけばよかった。
京成西船駅周辺は、住宅街で道幅も細く地味な感じだった。
停車は各駅のみ。次の東中山という駅で快速に乗り換えて…
高砂駅で金町線に乗り換える。
小さくて読みづらいけど案内表示に「金町線は改札外のりかえです」と書いてある。
初見殺し…というほどでもないか。案内板を見ていれば、なんとかなった。日本語表示がわからない外国からの観光客は大変かもだが。
柴又駅。地上駅、普通のみ停車、複線二面ホーム、駅舎改札は片側のみという構造が、名鉄本線の桜〔さくら〕駅というところとそっくりだなと内心面白く感じた。
が、名鉄桜駅なんて地元民以外知らないから、この面白みは他人には伝わりにくい。
駅舎内の改札手前あたり。もうこのあたりから「寅さん」一色である。
駅舎と寅さん&さくらの銅像は「その2」に貼ったからもう貼らない。これは銅像の右手あたり、参道商店街のとっつきである。
右端常夜燈の寄贈者銘が渥美清だった。
映画『男はつらいよ』シリーズ中に登場する「くるまや」は、「とらや」という屋号で営業中だった。名物草だんごを売る店は他に何店もあったが、なんつーかこれ反則だよね。
そんなで参道はとても賑やかだったが、決して長くはなかった。
いきなり山門にたどり着いた!
貰ったマップによると「二天門」というのが正式名称らしい。
正式名称といえば、柴又帝釈天の正式名称つか寺号が「題経寺」ということも、この日まで知らなかったのだが。
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二天門のすぐ奥は、本堂かと思ったら帝釈堂というらしい。
案内板を接写。
弊ブログ勝手に恒例OCR文字起こし。改行位置変更しました。ルビ省略しました。外国語文併記の場合は和文のみ。以下同じ。
葛飾区登録有形文化財
題経寺(柴又帝釈天)
諸堂内及び二天門
建築彫刻一括
所 在 地 柴又七丁目10番3号
登録年月日 平成4年2月5日
帝釈堂、祖師堂、二天門、には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指揮のもとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次朗・加府籐正一・山木-芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正12年(1923) 9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の胴羽目彫刻は昭和9年に完成しました。
彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m、厚さ20 cm襖-放の大きさです。
他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。
葛飾区教育委員会
二天門を境内側から撮ったところ。この右側に鐘楼がある。『男はつらいよ』シリーズでは佐藤蛾次郎演じる寺男の源吉がいつも竹ボウキで掃除していたりして、なじみ深い光景ではあるが、現実は参拝客・観光客が引きも切らない点、イメージとちょっと違った。
二天門左下のおみくじ自動販売機。『男はつらいよ』テーマのイントロをえんえんリピートして、正直耳ざわり。
左端の看板を接写。
東京造園業組合創立六十周年記念事業
"草木供養之碑"
人類は平和で緑豊かな環境で暮らしたいものです。社会に見られる都市開発が日々と進み快適さ、利便性を求め、実益を優先して様々な建設工事が激増して居ります。此の事は其れなりに意義あるもので御座居ますが、其の都度多くの草木が失われ、やがて地球温暖化に繋がってしまいます。自然環境は守りたいものです。土の恵みを伝え、植樹する時も自分の心に木を植える事と思い、草木を愛し、現在ある緑の保全と、小さな緑を広げ緑に覆われた地球を創り出したいものです。其の様な事を念頭において、建設事業に携わる東京造園業組合員一同は、草木に思いを起こし、感謝をこめて、心よりの草木供養之碑建立を決意致しました。なお僭越ですが、社会の皆々様にお呼びかけをして、御一緒に手を取り合って草木の大切さを語り合える場所にもしたいと思います。幸いにも東京都知事石原慎太郎様より題字の揮毫を戴き、その上柴又帝釈天題経寺住職望月日翔様、望月洋靖様の御厚情により、多年念願であった、緑を大切にするための草木供養之碑建立を達成する事が出来ました。
平成十年六月十八日
東京造園業組合
重要度ちょっと落ちるかなとも思ったが、長野県の善光寺寺域にも「花霊碑」という供養碑があったことを思い出し、弔事には大量の花卉を消費するのでこういうものがあちこちに立つのだろうなと思ったので文字起こしを載せた。
帝釈堂と、右側にある本堂を接続する回廊。
これが本堂。この裏に、あとで出てくる「大客殿」という建物と、「邃渓園〔すいけいえん〕」という庭園がある。
帝釈堂は中に入れたが、撮影禁止だったので写真はありません。ちょうど内陣で、若い寺僧が勤行をしていた。たぶん法華経のどこか一部だと思う。映画では笠智衆演じる「御前様」と呼ばれる住職が一人で経営しているようなイメージを受けるが、現実には寺僧を何人も抱える大寺院のようだ。
帝釈堂は、外部をとり巻く木彫が有名である。隣接する大客殿と邃渓園との共通券で拝観料が必要だった。
雨風を避けるためということで、ごらんの通りガラスを張り巡らし、内部は空調までかかっていた。
木彫は堂の外装を覆いつくす見事なものだった。最も重要なのは、案内書きにあった通り、法華経から題材をとった10枚ものの連作だろうけど、それ以外にも垂木が竜頭だったし、天女であるとか、駒獅子であるとか、花鳥図であるとか、とにかく木彫をはめ込めるスペースがあれば木彫がはめ込んであった。
撮影禁止だと思って案内書きを一生懸命メモしていたら、他の拝観客は気にせずスマホでバチバチ写真を撮っているようだった。「撮影禁止」の表示なかったのかも知れない。
案内書きは決して長からぬものだったが、全部は書き写せなかった。こんな感じだったということで、「拝観受付」の手前から三枚分のみ。
一枚目。
供養塔の図 序品第一
今、日月燈明佛の眉間から光が放たれると、当方一萬八千の佛国土が照らし出されます。
それらの佛國土ではさかんに塔供養が行われているのが見えます。このような現象が見られることが「法華経」が演説される前ぶれです。
金子光清作
仏と仏弟子たち、それに現代の寺院でもよく見られる多宝塔に似た供養塔が彫刻されていた。
二枚目。
三車火宅の図 譬喩品第三
三車とは、牛・鹿・羊がひく三種の車のことで、火宅とは、燃える家のことです。われわれ凡夫は、火宅の中で遊びたわれる子供と同じで何のおそれも感じません。
父親は子供たちを救出するために三つの車を用意したのです。
木嶋江運作
長者と子どもたち、それに牛、鹿、羊とそれらが牽く車が描かれていた。
三枚目。
慈雨等潤の図 薬草喩品第五
佛の慈悲深い教えは、あまねく地上を潤す慈雨と同じです。今、雷神と風神が現れて、雨をふらし、大地には、緑があふれ、さまざまな花が咲きほこります。天人たちも地上の楽園に舞いおりました。
石川信光作
俵屋宗達の屏風画に似た風神雷神が…あれ、風神雷神の出典って法華経だったっけ?
その他、気がつかなかったが「渡りに船」の出典も法華経だったらしい。もろに渡し船を描いたレリーフもあったのだ(薬王菩薩本事品第二十三)。
木彫以外には、階段の頭上に絵馬が合計三枚ほど掲げられていた。絵馬といっても神社に懸けてあるような小さなものではなく、まあ額絵だ。帝釈天は、どれも黒衣白面、三角眉毛に髭面の男神として描かれていた。
どれも写真を撮っておけば一番早かったんだけど、ままならぬものだ。
つか、題経寺はガチ日蓮宗の寺院なのだな。何を当たり前のことをと思いつつ、しみじみとそう感じる。
写真を撮らなかったといえば、大客殿と邃渓園も、有料エリアでの撮影は遠慮した。
これはあとで外に出てから撮った庭園入口。この日はここからは入れなかった。帝釈堂の拝観受付から、回廊を渡って入場することになる。
上の写真の左側あたりにあった邃渓園の垣とくぐり戸、それに説明板。やはりここから入園はできなかった。
右側説明板。
OCRにかからなかったので手起こしした。
東京都指定歴史的建造物
柴又帝釈天題経寺大客殿
所在地 葛飾区柴又七丁目10番3号
設計者 大工棟梁 鈴木源治郎
建築年 昭和4年(1929)
帝釈天題経寺は寛永年間に創設された日蓮宗の寺院で、境内には文化・文政の釈迦堂をはじめ、明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。
北側の和風庭園(邃渓園)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4年(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。
建物は木造、平屋建、総檜造りで、屋根は入母屋、桟瓦葺き、ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外見上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には、近江の伊吹山頂にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。
東京都生活文化局
左側説明板。
題経寺邃渓園
所在地 葛飾区柴又七丁目一七五一番一
指 定 平成二八年三月一一日
邃渓園は題経寺寺域の東、約二〇〇〇平方メートルの広さをもつ寺院庭園です。その歴史は、大正一五年(一九二六)発行の『東京府下帝釈天境内全図』に庭園が描かれていることから、その前後に作庭されたと思われます。その後、庭園は昭和初期に第一六代観明院日済上人より依頼を受けた庭師、永井楽山(一八八〇~一九七一)が大幅に手を加え、昭和四〇年(一九六五)、ほぼ現在の姿に完成しました。
元々は、昭和四年(1929)に落成した大客殿から眺める座観式庭園でしたが昭和三五年(一九六〇)に大回廊が建てられ、現在は大客殿の広縁を通って回遊することができます。
東西に長い庭園敷地は、その北側半分を池泉とし、北西に築山、北東に中島を配しています。築山頂部から流れる滝は二段落ちで、池川に張り出した汀線や中島により、流路は大きく蛇行しているように見え、東端の流末に至ります。永井楽山は、この滝がもつ幽邃な風情から、本庭園を「邃渓園」と名付けました。
庭園南側は開放的な芝庭で、大客殿より嵩上げすることで、芝がより近くに見えるような錯覚が起ります。この錯覚は、奥の池泉を大きく感じさせる効果もあり、大客殿広縁からの景色に奥行きが生まれるのです。
瀬戸御影石や京都加茂川の赤石、京都桂川の自然石を使った蹲など、庭園には名石がふんだんに使われています。また、円池南東には、茶室「不答庵」が設けられています。
永井楽山作庭の邃渓園は、様々な技巧を配し、東京低地の一角に幽邃な渓谷を再現した芸術的価値の高い寺院庭園です。
平成二九年三月 建設
東京都教育委員会
くぐり戸の格子の間からスマホを差し入れるようにして撮った、邃渓園内部の写真。回廊ばかりが目につくな。
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帝釈堂の裏手を通り抜けると、裏口から境内を抜けられる。
時計と相談しながら「葛飾柴又寅さん記念館・山田洋次ミュージアム」を目指した。
矢切の渡しは、このすぐ近くにあるようだった。
山本亭という古民家があった。地元の素封家の私邸を開放しているらしい。
古民家は落ち着くから大好きなんだけど、今回時間を割けるのは午前中だけなので、立ち寄る余裕がない。失礼して通り抜けだけに使わせてもらった。つかさきの矢切の渡しといい、葛飾柴又だけでじゅうぶん1日潰せたんだ!
寅さん記念館と山田洋次ミュージアムは、丘を掘り下げた地下つか半地下の、独特な構造だった。
丘を上って、反対側に下りたところが入口だった。
この寅さん記念館が、予想外によかった! (゚Д゚;
館内に入って最初のブースは写真展示のみで、山田洋次監督はじめ、大道具、小道具、撮影、メイクなどスタッフがどんな仕事をしているかの説明。一本の映画を撮るのに、どれだけの労力が必要かを想像させようとする試みだろう。
次のブースは、可動式ジオラマにより寅さんの少年時代、東京大空襲、終戦、家出、テキヤ修業時代などを表現したコーナーだった。映画で描かれる前史だろう。
ここまでは、ふんふんそんなもんかと思った。
ジオラマブースの背中側が、「くるまや」のセットだった!
何の気なしに足を踏み入れると、ここは、あそこじゃないか!
真ん中にテーブル、周囲に座敷席、右手が調理場、そして奥が「おいちゃん」一家の過ごした茶の間!
貰ったパンフレットによると、実際の撮影に使用したセットを、大船撮影所から移設したものだそうだ。
ものすごく月並みな言い回ししか思い浮かばないけど、「映画の中に入ったようだ」と形容する以外にない! これでフワッと高揚した!
奥に進むと、次のブースは太宰久雄演じるタコ社長「朝日印刷社」の印刷工場である。やはりパンフレットによると、本物の活版印刷機が展示されているとのこと。雑然たる事務机であるとか、大道具小道具のこだわりには目を見張る。
「くるまや」茶の間のテレビや「朝日印刷社」に設置されたモニターは、入場客が押しボタンでリクエストすると、それぞれを舞台とする数分の長さに編集された『男はつらいよ』シリーズの名場面が上映されるようになっていた。
そのようなギミックは、これ以降のブースでもそこかしこに設置されていた。
私は『男はつらいよ』シリーズは実はそんなに好きではないと、以前に書いたことがある。最後のほうの、吉岡秀隆演じる諏訪満男が実質主人公のシリーズしか見ていないと、寅さんが出てきたときのヒーロー登場のような扱いに「こいつ何ができるんだ?」と疑問を感じてしまわなくないか。実は寅さんは満男にパーマンに変身するセットをくれるのだ…ってそれは須羽ミツ夫。
寅さんの初期設定はテキヤと言いつつ実質ヤクザで、妹のさくらはもちろん家族の誰彼なし、それどころかタコ社長や無関係なはずの朝日印刷の社員にまで平気で手を上げる乱暴者なのだ。ネットでいう「子犬を拾う不良少年」と類型化してしまえるかも知れない。
それに加えて、共感性羞恥を誘うタイプのギャグが多いことも、苦手に感じる理由の一つだと思う。
しかし48作コンプリート達成とはいかなくても、何作も観た記憶があると、そこかしこに記憶に残る画面やエピソードはあるものだ。短く編集された名場面集を見る分には、アラは見えてこない。それを手掛かりに、記憶の中で自分の好みの部分を取り出して編集された物語が再生されるのだ。
ブースはまだいっぱいあったので、全てに言及する余裕はない。
ここもあとで気づいた。写真撮影は禁止されていないようだった!
帝釈人車鉄道の客車
帝釈人車鉄道には10人乗りと6人乗りの2種類の車両がありました。この客車は10人乗り車両をモデルにしていまち乗客1人あたりのスペースは30cm四方と、現在の乗り物からすると窮屈な感じがします。
田畑が広がる当時の柴又~金町間を人が押して走っていた客車に乗って、帝釈天への参詣風景を思い起こしてみるのも一興です。
あとは駆け足に。寅さん記念館の出口を、振り向いて撮ったところ。中庭のようになっている。
上の写真の右側に「山田洋次ミュージアム」があった。チケットは共通である。
『幸福の黄色いハンカチ』『たそがれ清兵衛』など山田監督の『男はつらいよ』シリーズ以外の作品に関するパネルと、撮影機、映写機、映画フィルムの実物などが展示されていた。
改めて考えてみれば、フルスクリーンに拡大してボケない精度の写真を、1秒間に24枚だったっけ、誤差なく撮影して連続映写により再生するという精密技術が、それも完全にアナログだけで、1世紀以上も前に確立していたというのは、驚くべきことではないのか?
そんなこんなで帝釈人車鉄道ならぬ京成電鉄金町線柴又駅に引き返し、京成本線に乗り換えて上野を目指したのであった。
こんなふうに、街一帯がまるごとテーマパークと化して軽く一日つぶせるスポットが、関東にはいくつもいくつもあるんだろうなぁ。
ほんの一例として、金町駅からJR 総武線 常磐線*1で一つ隣の亀有駅前で降りると、どういうことになっているか容易に想像できそうだし。私は『こち亀』もあんまり好きじゃないんだぞ、不良少年が子犬を拾うパターンで、またギャグが共感性羞恥を…だが全200巻コンプリート達成とは行かなくても…もういいってそれは!
そんなわけで、関東地方で個展やライブイベントがありましたら、なんとか都合を調整してぜひまた参加を検討したいので、どうかお知らせください。
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*1:ミスでした。失礼しました。kash06 さんご指摘ありがとうございます